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YMOを聴きながら。         ~映画「遥かなる山の呼び声」のころ~

1979年の夏。入社二年め。
ぼくは松竹の映画宣伝部にいた。
6月に「第23作 男はつらいよ 翔んでる寅次郎」のロケで北海道支笏湖に行き、寅さんの撮影が終わると、こんどは「遥かなる山の呼び声」(山田洋次監督)の撮影で、北海道中標津ロケに参加した。
中標津は釧路のはるか北の方で、撮影場所は、広大な牧場地帯だった。
同じ北海道でも、札幌とちがい、テレビでは見たことがあったが本物の北海道を見て本当にだだっ広いので驚いた。
ある牧場のロケで、主演の高倉健さんが見当たらなかったので、ぼくがスタッフに「健さんはどこですか?」と尋ねたところ、
「ああ、出番まではむこうの原っぱでねっころがっているよ」とのことだった。
見渡すかぎり地平線といった牧草地が続いていた。本番近くになると、スタッフが健さんを呼びに行くらしい。
健さんと子役の吉岡秀隆君と倍賞千恵子さんが登場する場面の撮影だった。
撮り終えたフィルムはいちど東京の現像所へ送って、焼きあがったラッシュフィルムが返ってくると中標津の映画館を借りて最終回の後に監督とメインスタッフが上映をして確認をしていた。
撮影隊は、養老牛温泉というところに宿泊していた。早朝、ロケバスは旅館を出発、数十キロほどとばして撮影場所の牧場へと出かけた。
北海道のコカ・コーラの缶が本州よりやたらでかかったことと、旅館の食事中に目の前を飛び回っていたハエの、これまた大きかったこと、が記憶に残っている。このハエはかみつくらしい。「あぶ」じゃないのと思ったが、旅館のひとは「ハエ」だと主張した。
ぼくはロケの現場に一週間ほど滞在した。当時の映画の現場では、宣伝部は撮影の邪魔ものみたいな扱いをうけていた。したがって、新聞記者を連れて行ったりしても、とにかく監督やキャストのインタビューを要領よくすまさないとスタッフににらまれてばかりだった。
宣伝部は「くるな、あっち行け」みたいな扱いを常に現場で受けていた。撮影の隙をぬって宣伝の仕事をしていた。
滞在中、地元のばんえい競馬場での撮影のとき、7月の炎天下での撮影だった。ぼくは滞在中おなかのぐあいがずっとよくなくて、この日、ロケを見守っていたが、昼食後だったと思うが、おなかが痛くなってもよおしてしまい、競馬場と言っても草原の中だったので、草むらを探して、その中で、用を足すことにした。「ふう」といったかどうか忘れたが、しゃがんで空を見上げると吸い込まれるような青空がひろがり、おなかが丈夫じゃないと映画の世界はしんどいよな、つくづく感じた。(この撮影から2,3年したころ、ぼくはよくおなかを壊したので病院へ行ったところ、「過敏性大腸症候群」と診断をされた。当時は「腸症候群」の前に「大」がついていた。たしかに「大」だが。精神的な原因らしいが、子どものころからそういえば緊張すると起こしていた症状なので、この診断をうけたときにとても納得したのを覚えている)
ロケ現場に一週間ほどいて、帰るころ、撮影スタッフからぼくはスーツケースのような大きな黒いボックスを渡された。
「撮影済みの生フィルム」が中に入っていた。これを東京の現像所へもっていって早く現像して送り返してくれ、というものだった。
カメラマンはぼくに「現像してみないと映ってるかどうかわからんからね」と言った。
現代のデジタル撮影と違い、その場で確認できない。フィルムでの撮影なので現像するまではわからない。ベテランになってもいつもその不安と戦っているんだな、とそのとき思った。
カバンと同じで持ち手がついていた。持ってみると、それはもう2、30キロあるのではという重量だった。
「え」と思ったが、がんばって持って帰ることにした。
翌朝、中標津空港から羽田へ向かう予定をたてた。
しかし、霧が濃く、この日は欠航となった。
それなら千歳空港から帰ろう、ということで、ぼくは早朝、中標津から列車に乗り千歳空港をめざした。釧網本線、根室本線へと乗り継いだ。
路線図を見ながらだったが、北海道を旅するのが初めてで、ぼくはどうやら各駅停車に乗ってしまったらしく、北海道の景色をながめながら、「そのうち着くわ」みたいな安易な気持ちで乗っていた。釧路をすぎて、帯広を過ぎて、高くのぼっていた日はいつのまにか西に傾き、あれれ夕方になるぞというとき、それでも千歳はまだ遠く、居眠りからさめて気がついたら千歳をすぎて札幌駅についていた。あたりは真っ暗になっていた。
一日がかりの北海道横断の旅の最中、ぼくの耳に当時人気急上昇だった「イエロー・マジック・オーケストラ」がずっと鳴り響いていた。ラジオでもなく、ウォークマンでもなく、一体どこから聞こえてきたのかもおぼえていないが、ひょっとしてどこかの駅でラジオから聞こえたのかもしれないが、一日中ぼくの耳に鳴り響いていた。
「どうしよ」とても千歳から当日中に東京へ帰るような時間ではなくなっていた。
ぼくが大きな黒いボックスをさげながら駅の構内をうろうろしていたら、「こんどうくん」と声をかけられた。そこに松竹大船撮影所の制作部のベテラン、三浦さんが立っていた。東京からやってきたところだという。
「何やってるの、きみは」と言われ、事情を説明すると、「なんで宣伝部にわたすかなあ」と言いながらも、
「わかった。明日、おれが現像所へそのボックスを持ってってやる」と言われた。
ということで、その晩は三浦さんとふたりで札幌のビジネスホテルに泊まり、重責からのがれたぼくはゆっくり湯船につかって疲れをいやし、三浦さんといっしょに、翌日、東京へ帰ったのだった。


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