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関東大震災と大学

こんばんは。
今日は9月1日、防災の日です。
言わずと知れた関東大震災が発生した日ですが、今年はちょうど100年。
そのため、いつもより話題になっているような気がします。

さて、以前も少し書きましたが、
私は大学移転の歴史を調べて書くことをライフワークにしています。

明治の初期からの話を超ざっくり書くと、藩邸の跡地や居留地にできた学校が郊外に移転していき、その後再び都心に回帰しつつあるという流れなのですが、
郊外移転の動きが一気に加速したのが大正期、とりわけ、今回話題にしている関東大震災が大きな影響を与えたようなのです。


官立大学の動き

以下では、詳しく見ていきましょう。
まずは官立。

東京商科大学(現・一橋大学)…神田一ツ橋に校舎が被災、石神井の仮校舎でしのいで1927年に国立に移転。残った建物は岩波書店や小学館などのオフィスに転用された。
東京高等工業学校(現・東京工業大学)…蔵前にあって大学昇格準備中に被災。被害が大きく他の学校を間借りしながら翌年大岡山に移転。急ぎの移転だったため、バラックでしのいだ。
東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)…御茶ノ水の北側(湯島)にあったが、震災後の火災で焼失。仮校舎で8年間しのいだ後、1932年に大塚に移転。比較的近い場所での移転となった。なお、震災の翌年に同窓会の桜蔭会が桜蔭学園を創設している。
東京外国語学校(現・東京外国語大学)恐らく最も悲惨な移転の歴史を背負うことになった学校。神田錦町にあった校舎が1913年の神田大火災で焼失、1921年に麹町区元衛町(後の気象庁所在地)に移転したと思ったら、わずか2年で被災。翌年には麹町区竹平町(文部省跡地、現毎日新聞社)に仮校舎として移転するも、よい場所は他校に奪われ、ようやく見つけた移転先の西ヶ原は、太平洋戦争の空襲で焼失。戦後に戻ってくるものの、後に府中に移転。

東京外大は、移転の歴史をHPにもまとめていますが、これをまとめられた先生は色々な思いがこみ上げて来たのでは…と拝察します。

私立大学の動き

私学はどうでしょう?
中央大学…神田錦町で被災。被害は比較的少なく、当面再建校舎でしのいだが、学生数の増加もあり、3年後の1926年に神田駿河台に移転。
立教大学…築地から(当時は郊外だった)池袋に移転済みで築地には中学校が残っていたが、震災時の火災で焼失。築地キャンパスの歴史は幕を閉じた(現在は聖路加国際大学がある)。
女子英学塾(現・津田塾大学)…当時五番町にあったが、震災で焼失。震災の前年、小平に土地を取得していたが、資金調達に苦労し、小平キャンパスへの移転が完了したのは津田梅子没後の1931年だった。
慶應義塾大学…三田が被災。火災の被害が無かったのは不幸中の幸いだったが、翌年の余震のダメージも大きく、震災をきっかけに郊外に新しいキャンパスを設ける機運が高まり、日吉キャンパス開設。

いやー、色々物語がありますね。
慶應のところを調べていて気づいたのですが、翌年余震があったのですね。

1923年9月1日の関東大震災で、慶應義塾は被害を免れることは出来なかった。藤本寿吉の設計した旧塾監局は翌年1月の余震を経て使用不能となり取り壊し、図書館も各所に亀裂を生じ、特に八角塔は取り壊しの上で再建せざるを得なくなった。

都倉武之「【小特集・関東大震災と慶應義塾】関東大震災と福澤諭吉」『三田評論ONLINE』https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/other/202308-4_2.html
より

歴史の教科書で勉強するときは一瞬で概要を掴まなければなりませんが、その上でディテールに迫ると、余震があったことなどもまた見えてくる。この辺の生な話を知れるのは、歴史を追う面白さなのかもしれません。

実は移転計画があった東京帝国大学

では、東京大学はどうだったのでしょう?
実は東大も相当被害が大きく、駒場の農学部以外はほぼ壊滅状態だったとか。
そのため、実は郊外に移転するという話もあったようです。

総長古在由直は大蔵大臣井上準之助に「東京帝国大学移転ニ関スル意見書」を提出した。しかし新たなキャンパス用地(陸軍用地)獲得による移転計画は大きな困難を伴い、11月20日の評議会で断念され、現在地本郷で再興をはかることに落ち着いたのである。

藤井恵介「東京大学本郷キャンパスの歴史と建築」『東京大学創立120周年記念東京大学展
建築のアヴァンギャルド 学問の過去・現在・未来』(http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1997Avantgarde/index.html
)より引用

ちなみに、その後の旧制第一高等学校と東京帝大農学部の敷地交換ですが、実は震災以前から話があったようで、震災がきっかけで移転したというよりは、震災のせいで移転が伸びた、ということのようです。

拡大する東京と高等教育の機会

こうしてみていくと、多分、こう纏められるような気がします。
・もともと大正期は高等教育の拡大期で、高等教育機関はより広いキャンパスを求める傾向にあった。
・震災がきっかけで、都心の密集地帯にあると火災のリスクもあるということで(多くの大学が、倒壊以上に焼失の被害が大きかったようです)、郊外への移転を検討した。

という二つの要因が相まって郊外への移転を加速させたのではないでしょうか。
単に復旧だけなら同じ場所にとどまってもよかったのでしょうが、奇しくも同時期に高等教育拡大ニーズがあったということと、私鉄主導の郊外開発が盛んになってきた動きも重なり、大学自体も拡大を目指した。復旧ではなく復興。
後藤新平のビジョンが今にも生きているのかもしれませんが、この時、もう少しお金があったならまた違う歴史があったのかも…などと考えるのは歴史にifを求め過ぎなのかもしれませんね。


ちなみに、私が度々話題にしている朝ドラ「らんまん」のモデル、牧野富太郎博士も、当時渋谷近辺に住んでいて被災、刷り上がったばかりの雑誌が燃えてしまったこともあり、奥さんの寿衛さんが郊外への転居を決意、大泉に移り住むことになったようです。
ラスト一か月、どういう展開をしていくのか、楽しみですね!

担当した『牧野富太郎 草木を愛した博士のドラマ』。東京の関連スポットを紹介した地図も載っていますので、よかったら読んでみてください!

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