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言葉あれこれ #7 指紋

 特に需要はなく、誰得ダレトクな記事にもかかわらず続いている「言葉あれこれ」。今日は「人称」のお話。

 プロフィールにある100問100答に、こんな項目があった。

6.初めての創作の思い出は?
 新井素子さんの影響で主人公の一人称が「あたし」だった。

 私は最初、少女小説の模倣から文章修行をスタートした。1980年代、私は中学生で、当時10代でデビューして華々しく活躍していた、少し年上の「お姉さん」世代の氷室冴子新井素子に夢中だった。

 いまは「ラノベ(ライトノベル)」に分類されるのだろうが、当時彼女たちが書いていた小説を「少女小説」と言った。「コバルト文庫」がその代表で、当時おこづかいをありったけ費やしてコバルト文庫を買って読んだものだ。

 他にもその頃ハマっていたものに、平井和正『狼男だよ』のアダルトウルフガイシリーズがある。
 この小説の主人公は「俺」。狼男だ。いわゆるエロティックバイオレンスホラーもので、ハードボイルドにも分類される。主人公の容姿がジャン=ポール・ベルモンドに似ているという描写があり、私はそれで初めてジャン=ポール・ベルモンドというフランスの俳優を知った。

(ジャン=ポール・ベルモンドって誰?の方にはこちらがいいみたい☝)。

 余談だが、ルパン三世コブラもジャン=ポール・ベルモンドがモデルらしい。1960年代~1970年代の女性の憧れがアラン・ドロンやビョルン・アンドレセンなら、当時の男性の憧れを凝縮したような存在がジャン=ポール・ベルモンドだったのかも知れない。
 2021年に88歳で亡くなっている。

 ハードボイルドやバイオレンス、任侠ものなどには「俺」という一人称小説が多い。出来事や事件、ストーリーや謎解きが主軸というより、「オレの生きざま」を語るという美学や哲学のようなものが魅力の小説だからなのだと思う。

 そんな素地を経てエログロナンセンス、いわゆる「中二病」の走りのような作品群が数多く出ていた1980年代、筒井康隆菊地秀行などの作品も数多く読んだが、私は平井和正が特に好きだった。表現力は群を抜いていたと思う。『幻魔大戦』あたりからだんだん雲行きが怪しくなり、今でいうスピリチュアルな方向に行ってしまって迷走、というか迷宮に入り込んでしまった気がする。何かで読んだがカリスマ教祖的な人と知り合い、傾倒してしまったらしい。そして比較的早くに亡くなられてしまった。
 ウルフガイも途中からそんな感じになってしまったのだが、それでも私にとって『狼男だよ』は燦然と輝く私の青春である。ブラックジャックの間黒男が初恋なら、『狼男だよ』の犬神明は私にとって二番目の男なのだ。はは。言い方。笑

 というわけで私はとりわけ一人称小説を好んで読んでいたのだが、中でも年若くしてデビューした「少女小説」の作家とその作品には強い親しみやすさを感じていた。そうなると次に来るのは「もしかして、私にも書けるのでは」という錯誤だ。大いなる勘違いだが、「書く」ということへのトリガーになったのは間違いない。

 ここでまた少し話が逸れるが、大人になってから当時の「少女小説家」たちの恐怖の実態を知ることになった。久美沙織さんが個人ブログで暴露していたのを読んだときは驚愕した。年若い10代の女の子をデビューさせ、ブラックもブラック、低賃金長時間労働で、酷い搾取が行われていたらしい。
 世間知らずの10代の少女たちが華々しく「小説家」として活躍する陰には、それを利用して儲けようとする大人たちの闇があったようだ。大人になった今となってはさもありなんと思うけれど、当時10代だった少女たちは書く方も読むほうも、欲望の資本主義に踊らされていたのだなと思う。

 実際、彼女たちへの世の中の評価は酷いものだった。もちろん、正直当時の私が読んでも、かぎカッコの会話だらけで地の文がないような、ページが真っ白けの作品などはいくらもあった。そういう作品と、正当に評価されるべき優れた作品が十把ひとからげにされていたように思う。最近ようやく、氷室冴子さんが再評価されようとしていると知って嬉しく思うが、デビュー時は「女だから」「年が若いから」、年齢を経てからも「文体が」だの「ラノベ出身」などと作家としての評価をないがしろにされていたことを思うと胸が痛い。
 その後純文学として現れたよしもとばななや村上春樹は優れた一人称小説を書いているが、氷室さんが彼らより劣っているとは私は思わない。やはり惜しくも早くに亡くなられてしまったが、尊敬してやまない作家さんのおひとりだ。

 ともかくそんな風に少女小説に憧れを抱き、必然的に一人称で物語を書くようになった。冒頭で書いたように、私が初めて書いた小説の主人公は一人称を「あたし」と呼称していた。そして特別な力を持つ「俺」が活躍する冒険活劇に憧れていた。

 一人称で物語を書くというのは、意外と難しい。なぜかというと、「あたし」「俺」「私」「僕」が見て聞いて話して食べて、という身の回りのことが中心にならざるを得ないからだ。対面した相手との会話が中心になり、状況の説明も狭い範囲に絞られる。遠くで同時に起こっていることは推測や伝聞でしか描写しようがなく、どうしても狭い範囲で狭い世界を描かざるを得ない。そのため主人公は、冒険をしたり旅をしたりする必要に迫られる。ずっと自宅にいたとしても話成り立ってしまうのが一人称のメリットでありデメリットだ。主人公が動かなければ物語が動かない。

 ちなみに、初めて物語らしきものを書いたのは、それより遡ること数年前、小学生の時だった。妖精との友情物語だったり、庭の草花とお話するようなメルヘンな物語の断片を書いていたのだが、こちらはすべて三人称だった。当時は人称に着いて全く意識していなかったが、読んでいた童話の多くが三人称だったのだと思う。

 物語が複雑になり、登場人物が多くなると、一人称の身動きのとれなさが気になり始めた。あるとき意識的に三人称を使おうと思い立ったが、一人称の主人公に多少なりとも慣れてしまっていたので、三人称で書くためには、訓練をしなければならなかった。

 「一人称」が主人公の文章と「三人称」が主人公の文章は構造が違う。「私」で一度書いた文章を単純に「アリス(仮)」に変換してみるとわかるが、ストレートには直せない。表現に違和感が生じてしまう。また、主人公と自分(作者)の距離感も違う。主人公の視点の置き方や視野の広がりも違う。

 一人称は「自分」の内面を深堀するのに向いている。三人称は自ずからメタ認知的な客観性を表現できる。人称を使わずに物語を作ることも可能だ。それぞれの良さがあるから、いいとか悪いではないと思う。どんなふうに人称に向き合うかで、作品が決まるような気がする。

 先日、Ryéさんからこんなコメントをいただいた。

 (前略)感情の吐き出し方がみらいさんの作品にはとてもリアリティがある。以前もお伝えしましたが、これはみらいさんが読者を感情移入させることができる筆力を示すものだと思います。

 私は登場人物と同化することがないので、たとえ1人称の形式をとっていても、その語り手をさらに外から見るような視点で書きます。おそらくこのスタイルが私の「指紋」一つでもあるので、今後も変わることはないと思いますが、こういう筆使いの違いがnoterさんの個性に繋がっているのでしょうね。

拙記事の短編『ある俳優』のコメント欄より

 作者と登場人物の距離感は、まさにRyéさんのおっしゃる「指紋」のひとつであろうと思う。そして私と登場人物との距離が「近い」とするならば、それはもしかしたら「書き上げた作品の一人称の部分を全部三人称に変えてみる」「三人称を一人称に直してみる」など、人称実験を繰り返したからなのかもしれない、と思う。訓練を繰り返すうち「三人称を一人称的に表現する」ことを覚えた気がするのだ。なんとなく。
 
 漫画の凄さは、人称は無視でもいいところだ。絵があることによって表現に幅が生まれ、文章のように混乱せずに人称のスイッチができる。「俺」「私」で語る人が何人出てこようが、情報として処理することができるし、「作者の視点」「神の視点」なども唐突に入れ込むことが可能だ。その点、どうしたって言葉のみで表現する小説などは、途中で人称が変わると混乱をきたす。人称に対してセンシティブにならざるを得ないのだ。

 

 
 
 






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