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ピカレスク

 「本音」はいつも赤いパーカのフードで相貌を覆い隠している。果たして髪が長いのか短いのか、あるのかないのかすらわからない。ひょっとしたら少女ではなく少年なのかもしれない。ボトムスは遭遇するたびに変わるが、アウターには常に赤いフード付きのパーカを着るので結局はいつも同じに見える。 

 「本音」のおかげでと言うべきか狼と狩人のおかげでというべきか、私の指先からは人を害するほどの毒を持った言葉は出ていかなかったようだ。私はこれまで「本音」とはあまり密な付き合いを好まなかったが、改めて「本音」と向き合うことになった。
 私は額に閉じ込められて壁に打ち付けられていた綺麗な言葉たちを絵の中から解放したが、彼らの中にもいろいろいる。
 巧言令色な麗人が話す言葉は美しいがひとところに留まらず、雲に乗って霞を食べている仙人や天女のようにただそのあたりを漂っていた。
 アスリートや戦士のように引き締まった体つきの言葉たちは、美学に裏打ちされたような自己陶酔と時に重苦しい空気を纏ってそのあたりの言葉たちを委縮させていた。どこかから借りてきたような「名言」もいた。彼らはその言葉を世に送り出したときの主の姿そのままなので、見たことのあるような偉人たちの姿であちこちで他の言葉を啓蒙しようと努めていた。

 狼と狩人を引き連れて戻ってきた「本音」は、もうひとり少年を連れていた。そして私に、覚えているかと問いかけた。少年は、ひどくおどおどと私を見た。ナイーブな目線はすぐに私の顔を外れた。「さあ。覚えていない」と私が言うと、少年はさらに縮こまったように見えて可哀そうになった。そうだろうな、と「本音」は言い、こいつは「本心」だ、と言った。

 「本心」と呼ばれた少年を、私は凝視した。私にも心があるとは思っていたが、こうして眺めるのは初めてだ。そういえば「本音」と「本心」は確かに違う。本心があるのなら、偽の心もあるということだろうか、と思ったとき、「本音」はにやりと嗤った。ああ、あるよ、と私の心を読んだように「本音」は言った。こいつとそっくりそのままの姿かたちをしているよ、誰にも見分けがつきはしない、でもそいつの名前は「偽心」じゃない。「建前」だ。建前はこいつの中に隠れているんだ、今も話を聞いてるよ。「建前」は我々の共通の敵だ。
 敵ではないよ、味方でもないけど、と、突然「本心」がか細い声で異議を唱えた。それに建前が必ずしも偽りの心とは言えないよ。
 そのとき狼がぐるると喉を鳴らした。それに驚いたように「本心」は肩を震わせた。こいつはあんたに似てずいぶん臆病だ、でも「建前」は違う。老獪で豪胆だ。あんたはよくあいつに騙されて、あの言葉たちを引き入れてしまうんだよ。そう「本音」は言った。

 私はその「建前」と会ったことがあるだろうかと聞くと、彼女は答えなかった。そしてポケットから鏡を出した。手のひらサイズの鏡だが、バロック様式のデコラティブな手鏡だった。彼女は私にそれを向けた。きらりと反射して鏡に私が映った。私は「本心」と同じ顔をしていた。「いや、これはわたしではない」と私は言った。私は少年ではない。「本音」は生真面目に鏡に尋ねた。鏡よ鏡、鏡に映っているのは誰。すると鏡が答えた、「建前です」。
 偽りの心は姿も偽る。すると私は、長い間「建前」に支配されていたのだろうか。

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