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GOLAZO #2

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 2002年。失恋して仕事も失った30歳の東野紅深ひがしのくみと妻に先立たれた65歳の速水草輔はやみそうすけは、近所に住む犬の散歩仲間。犬同士が仲良くなったことをきっかけに親しくなり、いつしか互いに大切な存在になっていく。病を得て、一緒に最後の旅をして欲しいと言う速水に戸惑う紅深。旅は実現しないものの、紅深は旅の計画をきっかけに出逢った男性と付き合いはじめる。彼は優しく善良なのだが、紅深は彼との恋愛にいまひとつ踏み出すことができない。
 横浜を舞台に、2002年と2022年のサッカーワールドカップとコロナ禍、20年の時を行きつ戻りつする物語。

2.2002年 ワールドポーターズ



 紅深くみが速水の異変に気がついたのは、映画を見ている途中だった。混んでいたが早めに席を取ったので、真中の通路よりの席に座ることが出来た。
 とにかく長い映画で、前知識がなかったために続き物だと思っていなかったせいもあって、いったいいつ話がクライマックスを迎えるのか、途方に暮れた頃だった。
 速水が席を立ち、戻ってきた。それが、二度繰り返された後、戻ってこなくなった。
 映画のストーリーどころではなくなり、主人公が川に落ちて下男に助けられるシーンで、紅深も席を立った。
 速水はロビーでひとり、ぽつねんと座っていた。
「常務。どうしたんですか?お腹痛い?」
 隣に座ると、彼はうんうん、と頷いた。
 良く見ると額に汗をかいていた。ただ事じゃないと、紅深は気を引き締めた。
「病院に行きましょう」
 ハンカチを渡しながらそういうと、速水は首を横に振った。
「いいんだ。大丈夫だ。悪いな、東野。せっかく楽しみにしてた映画だったのに」
「こらこら、話を創作しないで下さい。あたしは別に楽しみになんかしてませんでしたよ」
 速水はちょっとだけ薄く笑った。
「じゃあ、家に帰りましょう。ね?」
「まあ、待て。もう少ししたら、おさまる」
 速水は、紅深を手で制した。
「こんなの、いつもなるんですか?」
「このごろ、なるんだ」
 速水は言った。紅深は、彼の背をさすった。
「病院には、行ったんですか?」
「うん」
 紅深は、速水が嘘をついていると直感的に思った。
「お医者さんは、なんて?」
「ただの胃潰瘍だって。ほら、俺はお前と違って、人に気を使うタイプだからな」
 軽口が戻ってきた。
「今度行くとき、付き合いますよ」
「ばか、お前、健康な時に病院なんかいくもんじゃないぞ。院内感染するぞ」
「院内感染って入院してて抵抗力が弱った人がなるんですよ。そんなんじゃ、お見舞に行けないじゃないですか」
「いいんだ。とにかく。俺は大丈夫だ」
 立ちあがった。絶対無理をしている顔をしていた。
「常務……」
「おう。もう大丈夫だ」
 そう言うと、歩き出した。紅深は、慌てて後を追いかけた。
「常務、無理しないで下さい。タクシーで帰りましょう」
 紅深が言った。速水が、階段を降り切ってから振りかえった。
「大丈夫だって。もう治ったよ」
 今度は、本当にけろっとした顔をしていた。
「もう1回最初っからみるか?」
「もういいですよ。帰りましょう」
 紅深は速水の腕をひっぱった。速水は、何を思ったか動かない。
「また来ればいいじゃないですか」
 紅深が言うと、やっと、そうだな、と呟き、歩き出した。
 本当のところ、紅深の心臓は爆発しそうになっていた。いつか、そんな日が来るかもしれない、とは思っていた。彼と時間を共有していれば、いくらなんでも彼の「老い」の部分にぶつかるだろうことは、予測していたはずだった。親だって、ときどきいろんなことがある年齢だ。健康診断を受ければなにかはひっかかり、高血圧だとか、尿酸が高いとか、いろいろある。速水の健康状態については、特に気にかけないように努めてきた。彼は心身の若い自分を誇りにしているタイプだったし、そんな姿はプライドにかけて紅深には見せないだろう、とも思っていた。なにより、紅深がいろいろと身体の心配をするのを、彼は嫌がったのだ。年寄り扱いしないでくれ、おまえはケア・サービスかと、怒るのが関の山だった。
 独り暮しをしている速水の真実の生活、というのは紅深には計り知れない。今回額に脂汗を浮かべて痛がる速水の姿をはじめて目にし、紅深はひどく恐ろしく思った。頭の中が、嫌な予感でいっぱいになった。
 65歳という年齢は、紅深にとって、70代よりは若い、という程度に過ぎない。彼が病気だったら、そして死んだら、親戚でもなんでもない紅深は、速水の死亡すら知りようがないのだ。誰も紅深に教えてくれないだろう。エルメス改めゆきちゃんのお母さんが、「ちょっと、速水さん亡くなったんですってよ。聞いた?」と教えてくれる様子を想像して、紅深はすっかり落ち込んだ。そんなのは嫌だった。断じて嫌だった。速水に死んで欲しくなかった。
「常務。あたし、そんなの耐えられません」
 ワールドポータスの2階まで降りた時、紅深は突然言った。
「あ?なんだ、なんの話だ」
 速水は驚いたようにぽかんとしていた。
「あたし、常務が死んだら、どうしたらいいんですか」
 速水はあっけに取られた顔で、紅深を見ていた。
「おい、いきなり殺すかよ?」
 腕を組んで、にやにやしている。
「さてはお前、俺に惚れたなぁ?だめだめ、俺には永遠のマドンナがいるんだから」
 茶化した速水に、紅深は言った。
「さっきみたいなの、あたし駄目です。見ていられない。常務が心配なんです。あたし、常務を心配してるんですよっ」
 紅深の目には、じわじわ涙がたまってきた。それを見て、さすがの速水も驚いたようだ。
「なにも泣くことはないだろう。はい、これ」
 速水は素早くハンカチを紅深に渡した。さっき紅深が渡したハンカチだが、その素早さはさすがだった。
「ううっ、不覚だけど、こういうところが常務はラテン系ですね」
 紅深は自分でも訳がわからないことを言った。
「ばかだな。とにかく行くぞ。今日はお前の涙に免じて、大人しく大船に帰るからさ」
 速水と並んで歩き始め、紅深はやっと落ち着いてきた。
「それにしても、そんなに東野に衝撃を与えたなんて、驚きだなぁ」
 歩きながら、速水が言った。意外と真面目な顔をしていた。
「ちょっと腹具合が悪かっただけだぞ?まあ、心配されて気持ちはよかったけどな」
 嘘だ、そんなの嘘だ、と紅深は思っていた。
 ちょっと腹具合がわるかったなんて、よくも言える。あれは絶対に、「いつものやつ」だ。慢性的に、ときどきなるものだ。そういう我慢のし方だった。
 紅深の疑いの眼差しをかわして、速水は言った。
「長ぇ映画だったなぁ。だから腹が変になっちゃったんだよな。ほら、だんだん寒くなってきたし。気候のせいかもな」
「常務。一緒に、病院に行ってください。病院に行ったなんて、嘘でしょ」
「うん?」
 速水はとぼけた。
「さもないと、また往来で泣きますよ」
「往来って。東野、どうしたんだ。急に言葉が前時代的になってるぞ」
「常務にカスタマイズしたんです。とにかく、お願いですから」
「それを言うなら、後生だから、だろうがよ」
 速水は、自慢の健脚でてくてく歩いた。やせ我慢かもしれなかった。
「はぐらかさないで下さい。もし病院に一緒に行ってくれるなら、あたしスペインでもどこでも、常務と行きます」
 ぴたりと、速水は歩みを止めた。
「そこまで言うか。なら、教えよう」
 突如、言った。顔が真剣だった。今度は紅深が驚く番だった。
「俺はどうやら、がんらしい。そう長くない命だって医者が言うんだ。だから、スペインに行ってみたくなったんだ」
 紅深は絶句した。速水は天気の話でもするように続けた。
「行ってみたいんだが、なにしろがんだろ?途中で何が起こるかわからん。だからぜひとも同行が必要だった。俺には友達があんまりいない。いないこともないんだが、同じ老人同士で行ってもつまらんことこの上ないし、似たような年齢の友達に実は俺がんなんだよって言うのも盛り下がるだろ。もし、東野がスペインに行く積もりがあるんだったら、その後打ち明けようと思ってたところだ。たまたま、さっきはうっかりあんなところで痛みがきたが、普段は薬さえちゃんと飲んで定期的に病院に行ってれば大丈夫なんだ。そうだ、この際だから、もっとはっきり言っておくぞ。旅行会社に頼んで、無関係な第三者に同行してもらうことも考えた。でも、結局見ず知らずの人なんてつまんないからさ。東野が行ってもいいって言うなら、俺は最後の旅を、東野としたかった」
 紅深は、今度こそ盛大に涙を流した。とめようとしたがとまらなかった。
「頼むよ、東野。泣くなよ。俺に惚れるのだけはやめろ」
「もうっ。常務、そんなんじゃないのくらい、わかってるでしょう?」
 紅深は速水の腕を叩いた。自分が悲しいのか、辛いのか、怒っているのか、全くわからなかった。そんな紅深の思いをよそに、速水は淡々と言った。
「東野。がんだろうが、なんだろうが、俺は別に構わねぇんだ。だって、あっち側には、もうカミサンが待ってるんだぞ?きっと今来るか、今来るかって待ってる。俺はもう、早くカミサンに会いてぇんだ。なんったって最愛の女性、最愛の女房だからな」
「いいなぁ。なんだかわかんないけど、ものすごく羨ましい」
 泣きながら、紅深は思わず叫ぶように言ってしまった。
「一生に1回くらいは、そんな風に思われてみたいよ」
「東野にも、きっとそういう男がいつか現れるさ。そんな、絶望的な顔しないでいい。俺はさ、充分に人生を生きたって思うんだ。後悔がないとは言わないよ。だけど、カミサンが死んだとき、俺も半分死んでるんだよ。もう、俺はカミサンを待たせすぎてんだよ」
 紅深は道端でしくしくと泣き続けた。人が次々、振りかえっていく。
「ただ、カミサンが死ぬときに、絶対に自殺だけはしないでって頼んだもんだからさ。自殺すると、来世で会えなくなるんだって。知ってるか?よくわからんが、どうもそうなんだってよ。少なくともカミサンはそう信じてた。それに、ヨーコがいたし、ラルフと会えたし、そのちびたちにも会えただろ?なにより、東野。お前がいたから。ヨーコの散歩して、お前とぼーっとベンチに座ってたとき、本当は、ヨーコが死んだら、俺もいつ、ってそんなことばかり考えてたんだ」
 紅深は、やっと泣き止んだ。なぜか、自然に涙が止まった。不思議だった。なにか急に、静かな気持ちになった。
「お?ようやく泣き止んだか。よかった、よかった」
 速水は飄々とそう言い、また歩き出した。紅深も、歩調を合わせて歩き出す。
「そんなわけで、できれば俺の勝手な都合上、早く出発したいんだ。東野はどうだ。すぐにも行けそうか?」
「男がいないもんで。今現在無職なもんで。問題ありません」
 紅深は答えた。
「どうしたんだ、そのパーフェクトな模範回答は。ツッコミどころがなくてつまらんじゃないか」
「常務、言葉は大丈夫なんですか?」
「ああ、それなら心配ない。やっぱり無関係な第三者にもついてってもらうことにしようと思ってるからな」
「それを言うなら、添乗員さんでしょ?団体旅行じゃなくても、旅の最初から最後までつきあってくれるものなの?」
「金はかかるが、頼めばな。世の中、金があるとなんでも思い通りにできるもんだな。現地人とか現地に住んでる日本人だと、行く先々で人間が入れ替わっちゃうらしいから、日本から一緒に行って、帰ってきてくれる人を頼んだ。できれば美人、と付け加えるのを忘れなかったぞ、偉いだろう」
 現地人、美人希望などといちいち昭和な物言いを直そうと思ったが、そんなことより安心が口をついて出た。
「あ、よかった。女性を頼んでくれたんだ」
「当たり前だろう。俺は両手に花。最後の旅は華やかにしたいからなぁ。まあ、片一方は少々地味ではあるが」
 紅深は、怒る気にもならなかった。速水が明るければ明るいほど、紅深の心は沈んでしまう。それをとめられなかった。自分でも、暗い顔をしていれば、速水の明るさはもっとエスカレートするに違いないとはわかっていた。でも「がんで余命いくばくもない」と聞かされ、平気でいられるほうがどうかしていた。
 桜木町駅で、ふたりは別れた。いつもそうしているのだ。家にはひとりで帰ると言うのが速水のこだわりだった。だが、今日ばかりは心配で、ついていくと紅深は言った。どうせ方向は同じじゃないですか、と。
「なあ、東野」
 速水は、混雑した改札前で、しんみりと言った。
「俺に同情なんて、金輪際やめてくれ。お前の気持ちは嬉しいよ。この年で、しかも独り暮しで、本気で心配してくれる人間が周囲にいるってことが、どれだけあり難いことかは、わかってるつもりだ。だけどな、俺は、お前と楽しい思い出を共有してきた。これからも、楽しい思い出を作りたいんだ。お前が俺を思い出したとき、辛気臭いジジイに無駄に時間を浪費したと思って欲しくない。確かに、俺は病気だ。でもそれがなんだよ。お前に労わられるくらいだったら、もう2度とこうして会わないし、旅行もいかねぇよ。そんなこと、俺はこれっぽっちも望んでない」
 紅深は、黙って速水を見つめた。
「若いお前に、無理難題を押しつけてることはわかってる。病気の話なんかしたら、苦しめてしまうこともな。だけど、本当に、お前がこうしてたまに会ってくれて、なんだかんだ話をしてくれることが、嬉しいんだ。確かに、お前に話をあわせるのに、俺は無理をしてるよ。だけど、そんな無理こそが、今の俺には楽しいんだよ」
 速水は苦笑して、珍しく本音を吐いた。
「気をつけて帰りな」
 軽く手を上げて、速水は改札を通りぬけた。完全な、言い逃げだ。
 いつも伸びた背中が、微かに丸まっている気がして、紅深は言いようのない感情を抱いた。父親に対して、ここまで思ったことがない。そう思ったら、自分の父親が不憫になったと同時に、速水に対する紅深の感情が、遥かに複雑なものであることを実感として噛み締めた。速水に対して紅深は、おそらく「男性として」なにかのモデルを当てはめている。恩師だろうか、恋人だろうか。よくわからないが、他人に抱く感情にしては、少し逸脱している部分があると思った。彼の病は確かに重いものだった。でも、逃げ出したいとは思わなかった。
 無事に、奥さんのところへ送り届けなくては。
 そう思って、さすがに紅深は苦笑した。
 無事に。
 紅深は、根岸線に乗った。

つづく

※「GOLAZO(ゴラッソ)」サッカー用語。
  スペイン語で「最高のゴール」。

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