オランダに来てから、私が怒られなくなった

「時々、突然怒鳴られます」「怒られることに、慣れることができるのでしょうか」という日本人女性の呟きをツイッターで見た。
私もそうだった。
家庭、学校、職場、時には街頭で、なぜか突然。
叱責や怒声を浴びせられては、それを否定してくれる人も限られていたので、本当に辛かった。


「普通に話せば分かるので、そういうの辞めて頂けませんか。」ということを何度もそのまま相手に伝えたことがある。しばしば突然大声で切れて、数分から時に数十分説教してくる職場の上司だった。でも、全く私が言ったこの言葉の意味が分かっていなかったようだ。何度も同じことを言ったけど、スルーされた覚えしかない。心の歯牙にもかかっていなかったのだろう。


オランダに来てから、いや海外に出てから、怒鳴られることが一切なくなっていたのに、改めて気づいた。
ここに家庭はないけど、2年近く合計2つのシェアハウスに住んで、同居人からそうされたことは一切ない。
(日本のシェアハウスでは年上の同居人からやられていた)
オランダ人や様々な国の人々と仕事をしているけれど、そんなの見たことも聞いたこともない。
(日本ではかくかくしかじか)
街で子供が叱責されているところや、高齢男性が妻にキレているような光景も見たことがない。
(子供は怒鳴らなくても良い大人になれますよ)

今、「普通に話せば分かる」という私の感覚は正しかったのだ、と本当に分かる。普通に話して、伝えたいことを伝え合うことができて、それで社会が回っていて、人は怒号が飛び交わない分幸せそうに見える。
私がバカで愚かでクズだから怒鳴られていたのではない、ということも、物凄くよく分かる。仕事を誠実にこなしていていれば、きちんと上司が評価してくれて、「I’m lacky with you」「I’m proud of you」と伝えてくれる。そうでなければ、こうして欲しい、とただ淡々と伝えてくれる、そして大抵は話し合えば理解してくれて、悪い評価には滅多に繋がらない。
男性や年上の人が「お前は俺を馬鹿にしている」と言ってきたことは全くなく、逆に「あなたは賢いね」と言ってくれることが時折ある。
子供について言えば、うっかりこちらに住む友人の子供に強めに注意しそうになり、ここではそれが「かなり程度の強い注意」になることに気付いた。


話を日本にいた頃に戻す。日本で大学を出て「世間」に出てから、あまりにそんな時代が続いたので、いつしか私自身が変質していた。
学校のクラスや大学の授業で手を挙げてものを言うのに何の躊躇もしたことがなかった。児童会や生徒会で選挙に出て、緊張はしたけれど多くの人の前で話すことに臆することはなかった。他大の授業に忍び込んで挙手して質問した。
少なくとも3.11の頃まで、自分の意見を言うことに、どんな政治的話題でも、誰に対しても、どんな場所でも、(さすがに職場では避けていたけれど)、戸惑うことはなかった。

それがいつしか、何か考える度に怒られはしないか怯えて頭が自動で100回転するようになっていた。
SNSで書くことすら、時々躊躇うようになり、それ以上にブログや記事にして表現したりすることは出来なくなっていた。
もう海外で生活の基盤を築き始めて、安全になったはずなのに、過去が追いかけてきてフラッシュバックしていて、それを追い払うのに精一杯の時間が1年は続いていた。
かつての私のように堂々と書いて、話している人を見て、羨ましく思い、なんでこうなってしまったのだろう、と泣けてきた。


そうした時間を超えて、また少しずつ書くようになったのが、このnoteだ。
今、日本で同じ思いをしている人は、まず自分が悪くないことに気付いて欲しい。今すぐは抜け出せないかもしれないけど、自分を責めて死にたくなったりしなくていい。怒られ、叱責され、怒鳴れることは普通ではないので、慣れなくていいし、そこから抜け出していい。

他人を叱責し怒号をあげるのが普通になっている人が、ここまで読んでくれたかわからない。でもそれは全く人間が穏やかに幸せに暮らすのに不必要なことで、他者の人生を著しく損なっていることに気づいて欲しい。
私は今いるオランダ社会のようなところで早めにキャリアをスタートしていれば、どんなキャリアを今頃築けただろうかと思うと、果てしなく悔しい。
そんな社会は男も女も子供も不幸にしている。

暴力に負けなくていい、暴言に慣れなくていい。暴力に負けるのは正しいことじゃない。そんな人間関係は築いてゆける。

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