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Ocean Boulevard を走ってみた。

この記事は、Space of Digital Humanities からの転載です。オリジナルはこちら


アジアのOcean Boulevard

南北に7キロにわたって続くビーチ沿いにOcean Boulevard が走っている。南の端から北に向かって、そのOcean Boulevard をバイク・タクシーに乗って走ってみた。

サンタモニカから海岸線と並行して南へ下っていくとヴェニスビーチになり、その先にヨットハーバーで有名なマリナ・デル・レイがある。若い頃、毎日その道を通ってダウンタウンにある学校とマリナ・デル・レイを見下ろす丘の上のアパートの間を250ドルで買った助手席のドアが開かないトヨタ・マークIIという車でドライブしていた。下の動画はそれとはまったく関係ない。ただ思い出した。

東南アジアを住むように旅してると、ひょっこりと日本に出会うことが少なくない。今、このビーチを歩いていて聞こえる言語は、ほぼロシア語なので、そこで日本人に出会うわけではない。街の中に入ると、聞こえてくる言語は韓国語とロシア語の二つが優勢になってくる。あまり多くはないが中国語も聞こえる。アクセントが上がったり下がったりする感じのせいか、中国語とベトナム語は僕の耳にはちょっと似ているように聞こえる。

食堂や土産物屋や雑貨屋の値段がベトナム通貨のドンと中国通貨の元で表示されている店が多い。そんなに中国人多いのだろうかと思っていたが、ある日、雑貨屋で元の紙幣で払っている人を見たので、やはり中国人も多いのだろう。見た目だけでは、ベトナム人も韓国人も中国人も日本人もいっしょなので、何国人か判別するのは難しい。それにしても、日本人もいるだろうが、日本語を耳にすることはまったくない。かつての成金の威勢のよさが終わってしまった。

東南アジアのロシア人

ちょっと横道に逸れるが、国連の中ではロシア語を喋る人が多い。旧ソ連に含まれていた国がたくさんあるので、そういう国(ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン等々)とか、冷戦時の東側ブロックの国(ブルガリア、ルーマニア、チェコスロバキア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア等々)から国連に来た人たちはお互いにロシア語をよく喋っていた。だから、ロシア語には耳慣れしている。他によく使われているのは、スペイン語とフランス語だが、どの地域のオフィスかで優勢言語は変わる。どうしようもない言語音痴には英語で対処してやれ的に英語はどこでも使われる。

ロシア語を喋る人はたくさんいたが、ロシア人っていたかなっと考えていたら、かつての部下に一人ロシア人がいたのを思い出した。恰幅のよいおカミさんという風情で二児の母だった。旦那さんが何してる人かは知らない。日本文化圏の外では、パーソナルなことは自発的に話出さないかぎり、根掘り葉掘り聞きだす習慣はない。

そのロシア人のおかみさんは、おおらかで何かにつけてワッハッハと笑う朗らかな人だった。ある日、彼女は自分の採用面接の体験談を話し出した。最初に自己紹介をする時に、「私の一番好きなことは朝やるセックスです、と言ってやったわ」と言って、また豪快にワッハッハと笑っていたのを思い出した。笑うポイントがいまいち分からなかったが、ここでいっしょに笑わないとなんか彼女を傷つけるようで、とりあえず僕もワッハッハと笑っといた。

この女性一人で全ロシア人を代表させるのは無理がある。よく考えると、ロシア語には耳慣れしていたが、ロシア人のイメージがあんまりなかった。だから、今、毎日朝から晩まで出会う大量のロシア人の仕草やふるまいを見るのは新鮮で面白い。

ロシア人は静かだ。それが第一印象だった。このロシア人が全部アメリカ人なら、とんでもなくうるさかっただろう。ここで見るロシア人には家族連れと老夫婦が多い。若目のカップルとかグループもいるが、あまり多くない。静かな印象を受けるのはそのせいかもしれない。東南アジアには、孤独な男性老人枠というのがあるが、そういうロシア人を見かけない。北欧や西ヨーロッパの男老人がアジア人の若い女性を目当てにやってくることが常態化しているのは誰でも知っている。BBCで特集されたこともあったと思う。アジアをなんと思ってるんだと腹が立つ。彼らの頭の中では、オリエンタリズムは今も全開営業中なのだ。追放したいものだが、大事な観光収入の打撃にならないような追放の仕方を考えるのは難しいだろう。

そこに、日本がちょっと金持ちになった時期に、西洋人と同じ立場にたって他のアジアの女性を食い物にするというポジションに入った日本人男という人類の最低・最悪・醜悪なカテゴリーがある。日本の首相候補の一人も堂々エントリーしている。絶滅して欲しい。

しかし、これは日本が明治維新の開国以来とってきた国家的政策とまったく相似形だ。欧米列強はアフリカ、中東、アジア、南米と片っ端から植民地にしていき、19世紀半ば、とうとう極東の日本に辿り着いた、日本は必死に抵抗して、植民地化される寸前のところで堪えきった。欧米に植民地化された世界中の国が日本の快挙に興奮し、崇拝する瞬間がやってきた。日本は世界中で抑圧される人々のヒーローになったのだった。

が、その後日本は全ての期待を裏切り、自らが植民地化する側に回ることにした。自分たちは欧米列強と同じ側なのだという妄想が、その後の日本の破壊と、再生と、現在進行中の再破壊に一貫した基調になっている。アジアの女性を食い物にする日本人男たちはそのミクロな現象なのだ。

ロシア人がまわりに気をつかう、あるいは空気を読んでいる、そして礼儀を重く見るということは、現実世界で同じ空間を共有すると、直ぐに気が付く。こういうことを言葉で説明しようとしても、たぶんすればするほど、実態と離れてしまうだろうと思う。レストランで出会うロシア人、エレベーターに同乗するロシア人、ビーチで会うロシア人、混雑する街ですれ違うロシア人、ホテルのレセプションで順番待ちするロシア人。ただそれだけの瞬間のふるまいのことなんだが、僕は何度もへーっと思った。ロシア人ってこういう感じなのかと。

アメリカ人と接触の経験がある日本人は多いと思うが、まわりに気をつかって、ほとんど挙動不審なほどキョロキョロしてしまう日本人と、彼らは全く違うってことを感じることがあると思う。それと真逆の雰囲気をロシア人から感じる。

ロシア人を白人とか西欧人というカテゴリーで見ていると世界を見まちがえる。実際、西欧人はロシア人を西欧人とみなしていないし、スラブの田舎者とバカにしている。ロシア人は、西欧人が見下し、バカにするアジア人と同じカテゴリーに入っている。西欧至上主義者たちはプーチンをそうやって揶揄する。この西欧人のロシア人に対する敵対心が実感として腑に落ちないところがあったが、ロシア人のふるまいを毎日見ているうちに、あーそういうことか的な理解が出来てきた。

そうか、ロシア人というのはあっちのタイプなんだな。あの懐かしい感じだ。それが僕の頭の中での新規了解事項だった。”あっち”とか”懐かしい”とか誰にも意味の分からない表現だけど、少しだけ説明すると、僕の頭の中では、いろんな国、いろんな文化、いろんな宗教の人に出会ううちにだんだんと出来上がってきた二分法がある。書物で知っている知識であったが、世界を渡り歩いているうちに、それが現実の人間の社会で見えてくる面白さに魅了され始めていった。二分法といっても、スペクトラムの両極と言った方が正確かもしれない。二分法の二分は両端にあるだけで、両端の間にも色々ある。

しかし、発端は思春期に戻るだろう。自分の知っている周りの世界、家族とか近所とか学校とかに対する違和感が本を通して知る外の世界が増えていくにつれ、大きくなっていった。自分が現実に住んでいる世界にべったりと張り付いてるのは前近代的村落共同体メンタリティ(以下、共同体メンタリティと略す)だった。外形は近代的だし、”都会の子”であったが、今で言う同調圧力のようなもの、異様に周りに気を遣い、場を読み、空気を壊さないことなどが絶対的な権力として存在していることに窒息しそうになっていた。本の虫であった10代の僕は、やがてそれがいつ始まったか分からないが、少なくとも江戸時代から現在まで何も変わらず、日本社会に貫通しているのだということに気が付く。それを共同体メンタリティとすると、その対極にあるのが、個人主義メンタリティだった。

10代の僕にとって、共同体メンタリティは忌み嫌うものだったし、個人主義メンタリティは、精神の解放であった。しかし、その後、書物ではなく、アメリカやヨーロッパでの生活と、アジア、中東、アフリカでの生活を通して体験する実際の人間が生活している社会は、書物の限界とは対照的に人間と社会の理解への無限大の窓だった。さまざまなメンタリティに出会ううちに徐々にそれらの見方が修正され、どちらかを忌み嫌う、あるいは崇めるいう情緒的反応が蒸発していった。話が思いっきり逸れてきたので、それはまたいつか別の時に書く。

ロシア人があっちのタイプなんだとか、あの懐かしい感じと書いたのは、日本文化ほどではないにしても、周りをよく観察し、気を遣い、粗相の無いようにするという態度をひしひしと感じたからだ。ソマリアでも、スーダンでも、ウガンダでも、ヨルダンでも、イラクでも、アフガニスタンでも僕は同じことを感じた。そして、土漠や砂漠の地平線を見ながら、思春期に自分が忌み嫌っていた、あの周りを読み、気を遣う態度に”懐かしさ”を感じたのだった。悪くないじゃないか、と。

アジアに現れる日本

「ひょっこりと日本に出会うことが少なくない」と書いたけど(忘れた人は、上の方の動画の下の段落を読み返してください)、そこで言おうとしていたのは、「あれ、こんなところに日本人がいる」というアレではなくて、日本人の足跡に遭遇するということです。

たいていの日本人は、日本そのものが属するアジアのことより、アメリカとかヨーロッパについての知識の方が多いんじゃないだろうか。自戒を込めて言ってるのだけど、僕自身は国連に就職してからやっと欧米世界の外のことを理解し始めた。もちろん、そもそも興味があるから、書物を読み漁って世界をちったあ知った気になっていたかもしれない。しかし、実際に現地の空港に降り立てば、5分で更新しなければいけないような底の浅い知識で頭がいっぱいになっていただけだと思う。

紀元前3世紀に全盛であったアショカ王の碑文が南アジア全域、いやそれを越えて今のバングラデシュからアフガニスタンやイラン辺りまでを含む地域で見つかるのだから、昭和初期にアジア全域に進軍した大日本帝国軍の足跡にアジアのどこで遭遇してもおかしくないはずだ。しかし、日本では日本軍がアジアのどこで何をしたかなんて教育はしない。だから、日本人がアジアで自分たちの先祖の足跡を発見すると「ひょっこりと現れた」と感じる。例えば、こんな一文を発見した時。「日本軍はこの地に”進軍”し、ナトランと呼んでいた。」

もちろんアジアへ日本が”進出”したのは、昭和の戦争の時が初めてではない。それよりずっと前、海外交易に熱心だった徳川家康は1604年に朱印船制度を開始していた。そもそも朱印という徳川幕府の証明書を発行してまで交易を続けようとしたのは、その頃、明が中国商船の日本渡航を禁止していたことが原因なのだから、日本人の東南アジア渡航は朱印船より前から続いていたはずだ。中国商船と日本船が出会って商取引をする場が、東南アジアのあちこちに出来ていた。だから、17世紀の東南アジアには日本人町があちこちの港町にあったということだ。何も知らない僕は、その足跡にまたひょっこりと出会う。

上の動画に写っている海岸は、2世紀から19世紀まで続いたチャンパ王国(占城国)の一部だ。今のベトナムの中部から南部にあたる。西から来るイスラム商船や、東から来る日本の朱印船にとって、重要な寄港地であった。

徳川家康の朱印船貿易の主目的は、香道(こうどう)に使用する沈香(じんこう)、なかでも上質の伽羅(きゃら)を手に入れることだったが、徳川家康のチャンパ王に宛てた沈香(じんこう)を求める信書が現在も残っているらしい。また、日本ではないが、14世紀から15世紀に掛けて交易国家として繁栄した琉球王国はチャンパと通商関係があったので、琉球王国の足跡も東南アジアにあるのかもしれない。

正倉院に所蔵されている蘭奢待(らんじゃたい)と呼ばれる香木は、9世紀頃チャンパから日本に持ち込まれたと考えられてるそうだ。

朱印船時代よりさらに1000年くらい前、遣唐使や遣隋使が、日本とアジア、つまり世界を繋いでいた。彼らが中国まで行けたのだから、日本の海賊もアジアに渡っていたはずだ。その頃、日本人はどこで何をしていたのか知りたい。アジア全域にひょっこり日本はあるだろう。それら全部を訪れてみたい。自分の先祖たちがどこで何をしてたかも知らずに日本を語るなんてお笑い種ではないだろうか。

注:
香道(こうどう):香道とは、主に東南アジアで産出される沈水香木など各種香木の香りを鑑賞する、日本の芸道である。
沈香(じんこう):沈香は、熱帯アジア原産ジンチョウゲ科ジンコウ属の常緑高木。代表的な香木の一つ。

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