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【連載】「こころの処方箋」を読む~6 言いはじめたのなら話し合いを続けよう

自分の意見を伝えることの大切さが説かれる時代である。それは河合の時代から続いている。

妻が夫に意見を言うな、妻は夫の言うことに従え、というのは時代錯誤のように思えて、未だに絶滅していないらしい。

労働者だってそうだ。雇用主と労働者の関係は対等であり、労働者は声を上げる権利があると法律でうたわれ、学校教育でも学ぶのに、未だにもの言えぬ労働者、ものを言わせぬ雇用主がいるらしい。

未だにそんな風潮や習慣の中に生きる人々がいる中で、自分の意見を伝えることの大切さが説かれるのは当然である。


近年、「ロンパ」という言葉が流行をみせた。聞くところによれば、特に小学生の間でよく使われていたらしい。

もともとは、ひろゆき氏のスタイルの象徴ともいえる言葉だが、そのスタイルが小学生にウケたのだ。

「ロンパ」とは、相手に有無を言わせぬ事実や論理を提示して、対話に終止符を打つスタイルである。

相手の主張に対する反例をあげたり、相手の具体例の穴を指摘したりすることで、相手がそれ以上の主張ができないようにする。


確かに、同じようなことは昔からやっている人がいる。ソクラテスなんかもそうだ。ソクラテスは、友人のクリトンの意見を受け入れているようで受け入れず、論理を重ねてクリトンの提案を拒否する。

そもそも相手の話を聞き入れようという態度が見えず、あれこれ理由をつけて自分の姿勢を貫き通す。

弁論家のゴルギアスには、徹底的にその矛盾を突き、打ちのめす。

自分だったら絶対に友達になりたくはないタイプだ。


このような姿勢、つまり、言葉によって相手の意見を徹底的に打ちのめし、対話を終わらせようとする姿勢は、かなり用法容量に注意しなければならない。

その土俵に立ちたいという者どうしが、合意の上で行うならよい。そのような戦闘であるとの合意なく、日常会話やその延長としてこのような姿勢を取るのは、無理やり対話を終わらせようとする非常に暴力的な姿勢である。

また、合意の上であっても、極力相手への配慮は必要である。最低でも、相手の意見をよく聞かなければならない。


ソクラテスのエピソードを読んでいても思うのだが、「あなた、相手の話を聞いてますか?」ということがある。助けようとするクリトンの提案を、あれこれ理由をつけて断る。自分がクリトンだったら、そんな理屈はいいから言うことを聞けと言いたくなるような偏屈なことを言う。クリトンの提案と、どこか論点がずれている。

「ロンパ」には絶対勝てる方法があって、それが、相手の話を聞かないというものである。

相手の言い分や話、真意や背景をくみ取ろうとしない、もしくは無視して、自分の意見をただぶつけるだけの姿勢を貫けば、必ず勝てるのだ。

相手が何を言ってきても、それを理解しようとせず、自分の主張だけを続ければ、相手はいずれ匙を投げるはずだ。

もし両者がこのような暴力的な立場を取った場合、両者が勝者になることすら考えられる。互いが、自分の勝利だと思っているからである。


この「ロンパ」の最大の問題は、対話を強制的に打ち切ることである。相手の話を聞かず、自分の論理を押し通すことで、対話は強制的に打ち切られる。

これはうまく活かせれば、役立つこともある。しつこい勧誘に対して、相手の言い分に一切相手をせずに、強制的に対話を打ち切ることは有効である。相手の話を聞こうとしたことが、やっかいな事態を招くのである。

しかし、そういった特殊な場合を除けば、対話は続けることに価値がある。続けることで深まるものや、続けることで広がるものがある。

そのような対話を強制的に打ち切るのが、「ロンパ」である。だから、基本的には友好関係を結びたい相手に用いてはならないものである。


河合が例にあげている妻の姿勢は、まるでこの「ロンパ」のようである。

不満の重なっていた妻の突然の打ち明け話を夫は受け入れたが、その後の夫の対応に妻は納得いかずに激怒した。夫は夫で、妻の不満を受け入れて対応したにも関わらず激怒された。

そこで発覚するのが、対話の断絶である。妻は打ち明け話をした後に、夫との対話を終わらせてしまった。そのことで、認識の齟齬が生まれ、新たな火種を生んだのである。


時として人は、このような姿勢を取ってしまう。

特に、我慢して我慢して我慢して、我慢しきれなくなったときに、相手の言い分も何もを拒否して、自分の意見をぶつける。

もしかしたら妻は、自分の意見が通らないことを恐れたのかもしれない。だから、自分の意見を確実に通すために、対話を終了させたのではないか。

RPGでいえば、自分のターンで終了させたのである。相手からの攻撃がなければ、自分は傷つかない。


対話というのは、苦しいものである。自分の言いたいことだけを伝えられれば、心地よい。けれども対話を続ければ、それに対して否定や修正、齟齬が生じるものである。それによっておそらく不快さが生じるだろう。

だから、対話などせず、一方的に自分の意見を伝えるのが、一番良いのだ。特に辛い立場にある人は、傷つく余裕がない。ただでさえ苦しい中で、それ以上の苦しみを背負うことはできない。だから、一方的に自分の意見を伝えることしかできないのだ。対話をする余裕はないのだ。


これはクレーマーとか、モンスター〇〇〇と呼ばれる人たちにも通じる。彼らは、なりたくてそうなっているわけじゃない。余裕がある段階では、相手と対話する姿勢もあったのだ。

しかし、いろいろな経験を経て傷ついてしまった。もしくは、急激な負荷によって、対話する余裕がなくなってしまった。

そんな状態のときに、相手が対話に持ち込むことは難しい。だから、まずはとにかく彼らの意見を聞くことが大切なのだ。とにかく不安な気持ちを少しでも和らげ、対話できるくらいに傷ついた心を落ち着けなければならない。


河合は最後に、「何かを言うことは最後通告のように行ない、実はそれがはじまりであることに気がつかないことが多いのではなかろうか。」と述べている。

それはそうなのだろうけれども、それには薄々気づきながらも、そこで対話を始めるところに向かえる人は、少ないのではないか。

せめて、何かを告げるときには、その後に対話が続くことの覚悟は必要だと思う。

これはもちろん、告げる方だけの問題ではない。告げられる側もまた、対話を続ける困難さを背負うからである。


とすれば、告げられる側が準備することはなかなか難しいだろうが、告げる側には準備することもできる。

だから一つには、告げる側は対話を続ける覚悟や準備ができるといいのかもしれない。

これもまた難しいところで、人は準備をしてしまうと、それをすっかり役立てなくては気が済まなくなることもある。

準備したらしたで、一方的にまくしたて、相手の意見を無視することにつながりがちなのもまた事実である。


ともかく、対話はとても困難な営みであり、何かを言いはじめるというのは、その対話を始めるきっかけなのである。

そんなことがあるから、なかなか言いたいことを言い出せない相手というものもあるものだ。

対話への困難は相手との関係性によって変わる。互いの姿勢によっても変わる。

人によって、話しかけやすい人、話しかけにくい人がいる。それは多分、対話を続けられそうな人、対話を続けることが困難な人とも言い換えられる。


こと対人支援職の人にとって、このあたりはとても大事な技術である。

話しかけやすい人、対話を続けられそうな人に、人は助けを求める。

そのためには、自分自身に余裕があることは大きなポイントになる。自分に余裕があることが、対話を続ける余裕につながる。

心も身体も余裕のある状態が、対人支援職にはとても大事なのである。

だから。

だから、学校の先生とか、児童相談所の職員とか、看護師さんとかに、どうか心と身体の余裕をお与えください。





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