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【連載】「こころの処方箋」を読む~10 イライラは見とおしのなさを示す

自分もずいぶんとイライラしてしまう性格なので、この指摘はしみる。

ここでの「見とおし」というのは、将来への見通しというよりは、自分自身の心の中について、特に自分の欠点について見通せていない、つまり認識できていないというニュアンスだろう。

まあまあイライラすることの多い自分なので、この問い、つまりは、そのイライラの要因が自分の中にないかを考えることが多い。

しかし、イライラしているということは、イライラの要因を自分自身が見つめたくないのであって、自分の欠点を見通そうとする方向とは逆の力が働くのだから、簡単なことではない。


最近僕がよくイライラするのは、前もってしっかり計画を立てていないことや、トップダウンで一方的な物言いをすることである。

前者を振り返れば、自分自身はなるべく下準備をして、万全を期して本番に臨みたいという価値観が自分にはある。演奏会一つとっても、なるべく下準備はしたいし、参加する一人ひとりがなるべく困らないように、パフォーマンスが発揮できるように、観客が心地よくいられるように、との信念がある。

しかし一方で、それには限界があり、準備のしすぎもまた問題であることも知っている。どれだけ準備をしても、本番はその通りにはいかないことが多い。また、自分が心地よいと思っていても、他の人にとってはそうでなかったり、自分の配慮がそれほど気にすることではないことも多い。

だからどこかで、準備したい気持ちの一方で、準備をしすぎない方がいいというアンビバレントな姿勢を取っている。


これは授業に向き合う中で身についてきた姿勢だ。高校や塾の授業では、もちろん準備はする。特に初めて教える教材や単元のときには、なるべく下準備は必要である。

一方で、実際の授業の流れが想定通りに行くことはまずない。もちろん、予想が甘いという側面もあるが、予想の全くできない場面も多いのである。

例えば、気合を入れて準備した授業が、急遽健康診断が入ってつぶれることだってあるし、たまたま前の時間に他の先生から叱られて、学級の空気が良くないことだってある。

集団に対しても、個人に対しても、想定外のことが起こるのが教育臨床の現場である。

そんなことがわかっていれば、準備しすぎることで、かえって臨機応変な対応を阻害してしまうことがあることを考えて、準備はほどほどにしておくのもまた、臨床のテクニックである。


そんな、準備することと、準備しすぎないことのアンビバレントな姿勢を取っている自分。それに対して、段取りをほとんど組まない、組めない人にイライラしてしまうのはなぜなのか。

それはもしかしたら、自分の中に、準備したくても準備できない、段取りをしたくても段取りできない、完璧にしたくても完璧にできない、という現実に対して、それを自分の欠点と捉えている部分があるのかもしれない。

そんなのは当たり前だと理屈では理解しながらも、そのアンビバレントな姿勢に、未だ収まりきれていないのかもしれない。

特に、準備はそこまでしなくともよい、段取りできないこともある、完璧など求めなくともよい、という声を、飲み込めていないのだろう。

その背景には、それまでに準備や段取り、完璧であることを求められたり、評価されたり、それらがないことで責められた経験があったのかもしれない。

いずれにせよ、そのような背景があるために、前もって計画を立てていない人を見ると、イライラするのかもしれない。


後者のトップダウンで一方的な物言いの方は、完全に自覚がある。

僕はトップダウンで一方的に物を言われることにイライラする一方、自分も自分の主張を一方的に押し付けがちである。

下手に弁が立つこともあって、言葉で押し切ったり、勢いで責めたりすることは、よくある。

正論という鋭すぎる刃を相手に向けることも多く、突きつけられた側は心地よくはないだろう。

相手の意見を間違ったものとして全否定して、自分の意見を正しいものとして全肯定する。それがまずいと思いながらも、やってしまっている。

そこには、自分の意見は正しいという感覚的な自信と、相手の意見の方が正しいかもしれないという疑惑がいつもせめぎあっている。

そう、ここでもまた、アンビバレントな姿勢が登場するのである。

そこにはやっぱり、自分の欠点であるという認識がどこかにあるのかもしれない。

だからこそ、自分の正義を振り回す存在にイライラしてしまうのかもしれない。


とはいえ、イライラの原因が自身の欠点にあるという単純な話ではない。イライラの要因はいくつもあり、自身の欠点が背景にあるというのはそのほんの一部だ。心はそんなに単純ではない。

そこには、計画を立てないことによって不利益が生じることへの不快感や、上に立つ者の判断で苦労することへの嫌悪感だってあるだろう。


おもしろいのは、河合が最後に例としてあげている、周囲をイライラさせる存在である。

確かに、いる。やたらと周囲をイライラさせる人は、確かにいる。そんな存在は、ときにはいじめの対象になる。

もしくは、そんな人が管理職やリーダーをしていることも少なくない。本人にそれほど問題が見いだせないのに、やたらと周りがざわつく。

その人の存在自体が、周囲の人の地雷を踏んでしまうのかもしれない。その人自身が地雷を踏むというよりは、周囲の人の爆弾を刺激するような態度や行動をしてしまうことだってあるだろう。


欠点は、その人にとっては繊細な部分で、デリケートな部分で、痛みを感じやすい部分だ。それを刺激してしまう存在が近くにいたら、それはイライラするだろう。

だからといって、それは欠点を持っている側に要因があるのであるから、地雷を踏む側、爆弾を刺激する側に改善を求めても仕方がないのかもしれない。

そんなときこそ、柔軟に己の地雷・爆弾に目を向けて、解体処理をするきっかけにできれば、少し生きやすくなるかもしれない。

しかしながら、解体処理はそう簡単ではなく、できれば専門家の助けがほしいところである。


その過程を、河合は「急がば回れ」と表現している。そこに込められたものはさまざまあるのだろうけれども、少なくともイライラを誘発する存在へのアプローチや、自分の中のイライラを直接なんとかしようとするアプローチは、心を扱うと考えれば、それほど解決が見込めないのだろう。

イライラを誘発する存在がいれば、その周囲の人の心に目を向ける。

イライラの要因となる欠点があるのであれば、それをじっくりと眺める。

そうした遠回りが、こじらせたイライラを解きほぐすのに必要なのかもしれない。




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