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SMよ、人生をひっくり返してくれ⑧ 穢れてなんか、いなかった

リクエストがないとやりづらい

S嬢デビューとして幸運だったのは、偶然にも対照的なタイプの二人のM男さんを試せたことかもしれない。

ジャイアンは「ここをいたぶられるとうれしい」というツボが明確で、質問すれば殴ってほしい部位などのリクエストをくれる。右も左もわからない初心者Sとしては、的が定まるのでやりやすかった。自己紹介で「わがままなM」と名乗っていたのも頷ける。そして、苦痛を自分の中で快感に変換できる、自家発電型のようだった。
一方で、吉村氏は「相手の喜びがすべて」という奉仕型なので、鞭についても飴についても具体的な要望はない。主導権を完全に相手にゆだねるタイプで、快楽も相手が喜ぶことによってはじめて得られるようだった。
「ヨシノさんのしたいことをしてください」と言ってくれるのだが、自分の怒りを発散させるよりM男さんとの掛け合い漫才……もとい、掛け合いプレイが楽しくなってしまった今、自分が何をしたいのかを完全に見失ってしまっていた。

いや、違う。
それはきれいごとだ。

本当は一つだけある。「あれ」だ。

「あれ」はパドルのようなスタイリッシュな専門器具を使わない、肉体だけの野蛮な暴力。記憶にある限り、私が幼稚園児のころから高校生のころまでずっと日常にあった。いきすぎた「あれ」により鼻血が出ても「この血で絨毯が汚れたらもっと怒られる」と恐怖でティッシュで鼻を力任せに拭っていた。誰も気づいてくれない、何度か打ち明けたがなぜかスルーされて生きてきた。今では本も書かせてもらってかなり浄化できたけど、それでも記憶に染みついている。怖くて、反抗できなくて、悲しくて、許してほしいけどその方法がわからない自分が恨めしかった。

「あれ」を再現したいと告白することは、裸を見られるより屈辱的で恥ずかしいことだった。でも私は一度「あれ」を行う側に立ってみたい。そこからはどんな景色が見えて、どんな気持ちになるのか。

「吉村さん、もし嫌だったら全然断ってもらっていいんですけど……」
「はい」
「髪の毛を掴んで、そのままビンタしてもいいですか?」

束の間。吉村氏の黒くて形のよい眉に、ふと皺が寄った。
私はすぐに後悔した。
ああ、やっぱり引かれたかも。様式美の欠片もないだたの暴力だもの。M男さんの尊厳を考えていない、自己中心的なリクエストを出してしまった自己嫌悪に、消えてしまいたい気持ちでいっぱいになった。

だが吉村氏は、少し困ったように顔を上げて、それでも頷いてくれた。
「大丈夫ですよ。ただ、目に当たらないようにしてもらえるとありがたいです」
「あ、ありがとうございます。少しでも辛かったら言ってくださいね」

こんな交渉があれば

吉村氏は黒いパンツ一枚の姿で跪き、私はその前に立った。
「じゃあ、いきますよ」と一呼吸置いてから、おずおずと髪を左手で掴んで上に持ち上げた。漆黒で艶のある髪は、子どものように柔らかかった。吉村氏は目を伏せている。人の顔を殴るなんて人生初めてだ。力加減がわからず怖い。
私は反動をつけることもせずに、右手で吉村氏の頬に軽く手を当てた。ぺちっ。吉村氏の肌はなめらで弾力があり、羽二重餅のようだ。気持ちいい――じゃないだろ。音もしょぼいし、まったく痛そうじゃない。これじゃ鞭にも飴にもならないや。

がしかし、人の顔面が自分の手のひらにぶち当たるという「肉の感覚」は、鮮烈だった。先ほどまで私の身体の中で休憩していた意地悪な虫たちが、再び騒ぎ出す。肉の感覚によって、残虐なスイッチが入ったのかもしれない。

「今度は反対側もいこうか」
私の口調は、記憶にある母そのものだった。髪の束をわしづかみにし、少し勢いをつけて左の頬も張った。
ううっと顔をしかめた吉村氏が、遠慮がちに口を開く。
「あ……、手の甲はちょっと痛いです。手のひらの方がいいかも」
残虐スイッチはあっという間にオフになり、いつもの低姿勢が顔を出す。
「わぁぁ、ごめんなさい! これで大丈夫ですか?」
右の手のひらで左の頬を打つには、手首を外側に返せばよかった。少し不自然な体勢にはなるが、やってやれないことはない。
「はい、ありがとうございます」
安堵したように表情を緩める、吉村氏。母と私の間に、このような交渉はあり得なかった。いっそあったら幸せだったのかもしれない。

ある変化

試運転、完了。

パドルのときと同様、調子がつかめると気分がノってきた。リズムよく右手を往復させ、頬を打つ。
お尻と違って、顔というのは人の尊厳が集中する特別な場所だ。そこを犯しているという背徳感に、慣れないながらも後頭部が甘くしびれていた。
「ほら、どんな顔してるか見せて」
髪をぐいっと引っ張り、顎を上げさせた。
「ううっ……」と声を押し殺して、泣きそうな、苦しそうな表情で目を伏せる吉村氏。

ああ、この表情だ。私も昔、きっとこんな目をしていた。
おどおどと支配者の顔色を窺い、何かを諦め、それいてこちらに許しを請うているようにも見える。いじらしい生き物。これは子供時代の自分で、私はこれが見たかったのかもしれない。
加虐する側とされる側。一人二役を演じるような倒錯の波が私を押し流し、トランス状態となる。もうジャイアンもAちゃんも、ヒデさんも視界から消し飛んでいた。

「あー、私も昔こんな顔してたなぁ。ずっと同じことされてたから分かるんですよね。ああ、かわいそうに。痛いよねぇ」

頭でいったん咀嚼するヒマもなく、唇が勝手にしゃべりだしていた。
もちろんかわいそうなんて微塵も思っていない。そして往復ビンタが止まらない。理性が飛んで、1、2度、嫌だと言われていた手の甲でぶってしまった。

それまでは暴力を振るわれてきた自分は、欠陥品で醜い存在なのかと思っていた。でも今、一方的な制裁に耐えて苦しむ吉村氏は、いたいけで愛らしいままに見えた。もしかしたら、私もそんな子どもだったのかもしれない。穢れは、「虐待をされる側」に宿っているわけではないのだ。
聞く人が聞けば「当たり前だ」と思うだろう。しかし、骨の髄までどっぷり思い込みに浸かってしまった人間からしたら、わざわざSMバーまで来て回りくどい体験をしないと気づけないこともあるのだ。これは自らリクエストをしない奉仕タイプの吉村氏だったからこそ、引き出せた経験だろう。

これだけでも、SM体験をしてみてよかったと思える心境の変化だったのだが、神様はギフトを多めにくれたようだった。

吉村氏の苦悶の表情、日焼けをしていない肩回りのなだらかな筋肉、すね毛の生えた両足。なんとなく身体中を目に映しているうちに、私はある変化に気づいてしまったのだ。

股間が――、

めっちゃ膨らんどるやんけ!!!!

オーマイガー!!!!!

正座をしてうなだれている黒いボクサーパンツの中央部分が、完全に盛り上がっている。まさかこんな状況で、性的に興奮していたということなのか。私が真剣に過去の清算をしようとあがいている最中に、貴様は何をしている。

「あれー、どうしてこんなところが大きくなってるんですか?」
足の指でそのてっぺんを小突いた気がする。腹立たしさが急に沸点に到達した。
「気持ちよくなってんじゃねえよ!」
ぐりっと踏みつぶしながら髪の毛をひっつかみ、渾身の力で追撃のビンタを喰わらせた。
「ああっ、すみません」
「謝ったって、まだ大きいままじゃねえかよ!」
自分で言って、笑ってしまった。
シリアスなドラマをコントにされたような脱力感もあったが、どこからでも快楽を摂取できる人間の感性の豊かさに感動も覚えた。
「私はずっとこれで苦しんできたのに――。何なんだよ! 私の30年間に謝れ!!」
乳首を指で思い切り摘まみ上げた。
「ううっ!! すみません!!」
もはや飴なのか鞭なのかわからない。でも理不尽な怒りなのは、わかっている。怒りが爆発しすぎて、その矛先は彼の下着にまで向いた。Hanesというメーカーのトランクスが実家にもあったからだ。おそらく父か弟が履いていたのだろう。
「なんでこのパンツのメーカー履いてるだよ! えーと、ヘイ・・・へインズ?」
「ハーネスです」
え、私、何十年間も読み間違えてた?? やだ、恥ずかしい。しかもこんな場で。私は思い切り吉村氏のお尻にパドルを振り下ろしていた。
バシッ!!
「恥ずかしいんだよ!!」

※後に読み方は、創業者の名前が由来の「ヘインズ」で正しかったことが判明したが、SM業界的には馬具のハーネスでもありだったのかもしれない。(ちなみにそちらの綴りは「harness」)

気がつけば、店内のみなさんがお酒を飲んだり、緊縛を練習する手を止めて、笑いながらこちらを見ている。なぜか室内が一体となって和やかな空気に包まれたようだ。Aちゃんも「そこまで拾うとは」と、ソフトなツッコミを入れてくる。他にも色々と声をかけていただいたような気がするが忘れた。面白がってくれていたり優しかったことだけは覚えている。

ヒデさんが「写真を撮らせて」と言ってきて、お店のTwitterにアップされていた。着ている服が違うのには、いろいろ理由がある。

11時閉店。「女王様として開花した」と言われて、その時間までにさらなる刺激的な経験をしたが、品行方正なnoteには書かないほうがよい気がしたのと、怒りや虐待克服とは直接関係ないのでまたの機会に。

店を出るときは、男女別で出ていくルールだった。このあたりもストーカーなどのトラブルを避ける店側の配慮だろう。でも、五反田の駅で偶然吉村氏に再会し「ありがとうございましたー」「おやすみなさーい」と、笑顔で手を振った。そんな緩さも、この日の締めくくりとしてピッタリだったと思う。

気分は、スポーツジムで思い切り汗を流したときのように爽快だった。日常生活において怒りをぶつける練習になったかは分からないが、非日常であっても自分の攻撃性を「遊び」として受け止めてくれる人や場所があることで、かなりの発散ができるのではないか。

帰り道、ホテルに向かう道を間違えた。
「逆方向じゃねえかよ!!」
と手が無意識に、持ってもいないパドルを振り下ろそうとして「あ、今足元にM男はいないんだ」と気づく。
この世界には、Sと呼ばれる人間のあらゆることを何でも受け止めようと頑張ってくれるM男さんがたくさんいるのだ。それを想うだけで、なんだか知らない道にお地蔵さんを見つけたような安心感だ。

ただ今回、一つだけ不満だったのは、自分のバリエーション不足のために飴と鞭がマンネリ化してしまったことだ。正統派の鞭が使えたら、もっと楽しいコミュニケーションができるのではないか。私は技術習得のために、もう一件だけ別のお店を訪れることにした。

(続く)

カラス雑誌「CROW'S」の制作費や、虐待サバイバーさんに取材しにいくための交通費として、ありがたく使わせていただきます!!