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死にたいって言ってごめんね

死にたいとか、口にするものじゃないと言われがちですよね。

本当にだめなんでしょうか。

それくらい追い込まれてるときに口から漏れるその泥のような感情を塞き止めるのはもっとつらい。


私は今年の6月から7月頃、死にたいと何度口にしたか分かりません。

親にも、友達にも、好きな人にも、心配されたし私一人でつらくなっていたらいいものを、一緒に苦しさを背負わせてしまいました。

理由は自分の能力のなさで人に迷惑をかけて失望したことと、どこのだれとも分からない人に中傷された文面を見つけたことです。

自分のポンコツさ加減は今に始まったことではないし、中傷だって別にそこまでひどい言葉でもないです。

でも毎日の色んなことで疲弊しているとき、最後の打撃がどんなに軽くてもそれまでの蓄積で一瞬で崩れてしまうこともある訳です。

だからその頃は検索履歴が「美しく死ぬには」「死に顔 きれい」「きれいな死に方」とかでいっぱいになっていた。自分の外見に対するコンプレックスも強いので余計に。

どんな風にしてその状態から抜け出したかと言うと、自分が抱えているものをいつ捨てるかを具体的に決めたことが大きかったのかなと思います。

私なんかと繋がってくれてる周りの人たちは確かに大きな支えになるような言葉をたくさんたくさんくれたし、実際にその瞬間は生きていられたけれど、結局それはその場凌ぎにしかならなくて、何かを捨てるか得るかしないと停滞したままなんだなって実感しました。

私は今一番自分を不自由にしていると思うものをいつ捨てるか決めました。

その後は、自分が価値あると思っているものの一部になるための道に進むつもりです。多分これにも不自由はいくらでもあるし、今の生活は十分に恵まれている。それでも自分がここで死にたいと思った場所以外で生き続けているのは死んでるのと同じと思っちゃったからしょうがない。


死にたいと思うことも言うことも実行することも、誰も咎められないその人の選択。自分の寿命を自分で決める自由くらいあると私は思っています。

でも、捨てたいものを捨てる目処がついた今、とりあえず生きていようかなという気分にはなれたし、動いた結果外野にいやなこと言われても、ちょっと傷つくけどそこまでつらくならなくなった。

だから、今は心配かけたみんなに「死にたいって言ってごめんね」と思ってる。

浮き沈みがあるのが人間らしさ、全てはタイミング。沈んだ時にそのまま消えてしまう人だっているよ。それを悲しむのもエゴだということは忘れてはいけないと思っています。


追伸。

メンタルが少しだけ強くなってる状態で外野のやな声を聞いたとき、この曲が思い浮かびました。さっきアラームにした。

誰もやってなかったから何もない小娘がすき間に入り込んだだけだよ。異論があるならやって確かめりゃいいと思います。



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