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ロボットの腕がとれました、ボロッと。

「ロボットの腕がとれました、ボロッと。」

これは、たしか桂文珍師匠のネタだったと思う。ずいぶん昔の話だがテレビで見ていると、文珍師匠の横におもちゃのロボットがいて、このネタに合わせて、本当にロボットの腕が落ちたのを覚えている。

ボロッと。

当然爆笑したが、ロボットの痛みは感じなかった。その当時、機械が痛みを感じるわけがないというのが常識だったからだ。

今、その常識が変わりつつあるらしい。少し前の話になるが、NHKで、「人間ってなんだ。A.I入門」というシリーズの番組をやっていた。その中で驚いたのは、近い将来、意識のあるロボットが誕生するかもしれないとの話だった。

ロボットは、意識のあるロボットと意識のないロボットに分かれ、意識のあるロボットは、人間とのコミュニケーションを担当し、意識のないロボットは単純作業を担当するとのことだ。意識のあるロボットは、介護やサービス業の現場に、意識のないロボットは、製造現場にということなのだろう。

そもそも、ロボットは、「痛い。」という感情をどうやって理解するのだろう。この番組では、感情ではないが、「痛い。」という言葉について、ロボットがどう理解しているかについても解説していた。ロボットは、人間のような肉体を持ち合わせていないので、人間の痛みを直接知ることができない。なので、ネットで「痛い。」という言葉がどんな場面でどのように使われているかを学習し、「痛い。」という言葉を理解するのだそうだ。

ロボットは、ネットから「痛い。」の言葉を理解する。

こう聞くと、意識のあるロボットに話し相手になってもらうのは、虚しいことだなと思う。はたして、そうなのだろうか。

わたし自身を振り返ってみると、私や私の近くで起こる「痛い。」の体験は、そう頻繁に起こっていない。それに比べ、ネットでは、「痛い。」「痛み。」の言葉をしょっちゅう目にする。もしかすると、私が理解する「痛い。」は、ネットからの情報による「痛い。」なのではないかと疑いたくもなってくる。私は、本当に生身の「痛い。」を理解し得ているのだろうかとまで思ってしまう。

「ありのままの自分」という言葉があるようだ。このありのままの「自分」って、みんな、どうやって理解してるんだろう。鏡に映し出された自分の姿かもしれないが、その鏡に映った自分の姿を置き換えた言葉は、もしかすると、ネットからの言葉じゃないのだろうか。

ロボットは、ネットを使って人間に近づいてきているが、人間も、逆にロボットに近づいてきているのではないかと冗談のように思う。近い将来、意識のあるロボットが話し相手になってくれたとき、ロボットの腕がとれたら、私は、なにをどう感じるのだろう。

(おわり)

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