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祖母の言葉と私の記憶

西由良(94年生まれ 那覇市首里出身) 

「あの世に学校なんてあるか!」

 そう叫んで祖母は逃げ出した。大人たちの制止を振り切って山の中を走る幼い少女。この場面をこれまで何度、頭の中で思い描いただろうか。78年前の渡嘉敷島で起こった「集団自決」。当時11歳だった祖母の祖母の記憶は、いつしか私の記憶になっていった。

 祖母の戦争体験を語り継がなければと初めて思ったのは2007年。中学1年生のときだ。沖縄県内では「教科書検定問題」を巡って大きな抗議運動が起こっていた。宜野湾市で開かれた県民大会に、両親に連れられて参加したのを覚えている。大人たちの怒りを肌にヒリヒリと感じながら、祖母が繰り返し語っていた「集団自決」の話を思い出す。自決場のニシヤマに集まるために、暗い山道を歩いて行ったこと。手榴弾が配られていたこと。最後だからと、一張羅の着物を着て口には紅を刺してもらったこと……。

 祖母は、いつも何気ないことがきっかけでその日のことを語り出す。テレビを見ていたり、昔話をしていたりすると何かをハッと思い出し、急に言葉が溢れ出てくるのだ。私たち家族は、その時が始まるとじっと耳を傾ける。
 自決場に着くと親族同士でかたまって、死んでから離ればなれにならないようにと足を紐で括っていたという。そして、「天皇陛下、万歳」という声が聞えこたと同時に次々と自決が始まる。祖母たちも、配られていた手榴弾を地面に叩きつけた。が、爆発しない。信管を抜いていなかったのだ。親戚のおじいさんが、手榴弾をコンコンと地面に叩きつけているその横で、親戚のおばさんが11歳の祖母に話しかける。「玲ちゃん、あの世に行っても元気に学校へいくんだよ」。その言葉に、祖母は猛烈に怒った。「あの世に学校なんてあるか!」紐をほどいて逃げ出す祖母を、大人たちも慌てて追いかける。それで、祖母たちは助かった。走って逃げていく途中で、親戚の叔父さんが頭がパックリ割れて死んでいた。友達が首を切られ倒れているのを見つけた。「玲ちゃん、私はやられたよ……」。

 照りつける日差しの中で、繰り返し聞いたそんな話を思い出した。教科書から軍の強制という記述が消されるのはどういうことなのか。祖母の話が嘘だというのか? 親戚のおじさんや、祖母の友達は勝手に死んでいったというのか? 「集団自決」がなかったことにされるかもしれない。そんな決断を易々とできてしまう大人たちに愕然とした。あの日の祖母の怒りが、私の怒りになっていく。それ以降、私は祖母の戦争体験について、より強い関心を持つようになっていった。

 東京の大学に進学してからも、祖母の話を思い出す機会は減るどころか、どんどん増えていった。生まれ育った土地を離れ、自分のルーツに興味が出てきたのもあるが、本土で生活する中で沖縄へ向けられる目線に違和感を感じたり、傷ついたりしたからだ。
 「沖縄出身です」というと、大体の場合は「実家が沖縄なんてうらやましい!」「海が綺麗でいいよね」「修学旅行で行ったよ」などポジティブな反応が返ってくる。そんなことを言われて、悪い気はしない反面、私の知っている沖縄とはなんか違うなと感じるのだ。繰り返し聞いてきた沖縄戦の話。それと地続きにある、ずっと良くならない基地問題。沖縄で育つなかで常に生活の一コマだった光景は、東京で出会う人たちの話には出てこない。私の記憶の沖縄はそこになかった。自分の記憶を確かめるかのように、私は沖縄のニュースや情報をネットでよく読むようになった。足りない知識を補おうと、沖縄関連の講義を積極的に受講したり、本を読んだりした。
 モヤモヤしながら過ごしているうちに、だんだんと、孤独を感じるようになった。自分の思いを周りと共有できない、どうせ誰もわかってくれないと感じていたのだ。
 しかし、東京でも、自分の大切な経験や思いを共有できたこともある。それは、2016年に祖母の記憶を映画に撮ろうか悩んでいた時のこと。進学後、私は映画サークルに入ったのだが、ある時、サークルの友人に祖母の戦争体験のことを話してみた。東京で出会った人には話したことがなかったが、この時は何かの会話がきっかけで、私は「集団自決」の話を語り出していた。かつて祖母がそうだったように。
 溢れ出てくる言葉を伝えるのに夢中で、話している最中は相手の反応も気にならない。一気に話し終えると、急に不安になってきた。どんな反応が返ってくるのか。どきどきしながら、最後に「祖母の話を映画にしてみたい」と打ちあけた。すると、彼は「それは絶対やったほうがいい」と強く共感し、応援してくれたのだ。胸が熱くなった。こんな風に話せる人が近くにいたんだ。東京に来たばかりのときは、こんな風に話せる人がいるなんて想像もしなかった。2007年のあの日からずっと「いつか祖母の記憶を受け継ぎたい」と考えていた私は、彼に背中を押され映画を撮ることにした。それからは、脚本を練り、たくさんの本を読み漁る毎日。友人は、一緒になって沖縄の歴史について学び、映画を作ってくれた。撮影は、祖母の出身の渡嘉敷島や祖父の出身の慶留間島に2週間泊まり込みで行った。たくさんの人を巻き込み、迷惑をかけながらなんとか2年の歳月を経て『おもいでから遠く離れて』という40分の中編映画が完成した。

 東京でも沖縄の話を伝えることができる。そんな希望を持ちつつ、テレビ業界に就職した。担当は、報道色の強い朝の情報番組。もしかしたら沖縄について取り上げられるかもしれないと期待していたが、それはすぐに打ち砕かれた。会議にネタを提出しても、もちろん見向きもされない。学生時代の気心が知れた仲間がいた環境とは違い、職場で沖縄の話をするなんて空気でもない。次第に激務で忙殺され、沖縄のことを考える余裕もなくなる。だんだんと沖縄との距離が遠くなっていくのを感じた。
 そんな時に、たまたま応募した映画祭の若手部門に『おもいでから遠く離れて』が引っかかり、東京で上映会が開催された。それに続いて、沖縄でも自主上映会を行った。観客の反応は良い反応や厳しい意見など様々だったが、40分の映画で伝え切れることはとても少ないと痛感した。これは、とてもじゃないけど一回で終わるなんてことは許されない。沖縄について考えたり、沖縄戦の記憶を語るのは、私が人生を通して向き合わなければならないことなんだと思った。

 そして、社会人になって4年目。私は「あなたの沖縄」という活動を始めた。1990年代生まれの20代~30代が、個人的な体験を通して、沖縄に関するコラムを綴るプロジェクトだ。この活動では、執筆者に個人的な体験を綴ってもらうことを大切にしている。SNSが普及し、言葉の対立が起きやすい世の中だが、個々のパーソナルな体験に焦点を当てることで、安心して沖縄について語れる場を作りたいと思っている。

 東京で働き、沖縄が離れていくごとに「自分が沖縄について語ってもいいのか」と悩みが深まる。でも、学生のころを振り返れば、私の話を受け止めてくれる人がいた。そんな経験を増やせるように、もっと気軽に沖縄について話せる場所が欲しい。そんなことを思って、復帰50年を目前に控えた2021年にはじめた活動は、今年の8月で3年目を迎える。インターネット上で毎週コラムを投稿し、個人の思い出や記憶を通して様々な角度から沖縄を映し出している。また、今年の3月にはリアルイベントも開催し、東京では毎月読書会を開催している。沖縄について考え、自分の思いを語る場が広がっている。言葉でつながることで、沖縄について安心して語れる場をこれからも作っていきたい。

※『9条連ニュース』8月号に掲載されたコラムから転載。快く転載をお受けして下さり誠にありがとうございます。

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