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生きていてくれてありがとう

西由良(94年生まれ 那覇市首里出身)

 小さい頃から、何度も、渡嘉敷島出身の祖母が話す「集団自決」のことを聞いて育った。始まりはいつも何気ない会話からだ。あるときは、親戚の話をしているときに。あるときは、歌を歌っているときに。ふとした拍子に、祖母は自分が経験した「戦争」を話しだす。その時が来ると、私たち家族は自分の動作を止め、じっと祖母の話に耳を傾ける。私も自然とそのくせがついた。子どもながらに、祖母が話す言葉の一つひとつが重要で、取りこぼしてはいけないものだと感じていた。

 何度も何度も、同じ話を聞いた。当時11歳だった祖母の語る「戦争」には、どこからどんな風に米軍が攻めてきたとか、日本軍はこう戦ったとか、そういう話はででこない。暗い山の中で自分と自分の母親の足を縛っていた紐や、周りの大人たちの言葉、あの日見た血の色や、亡くなった友達への自分の気持ちを一気に話す。その時の映像が鮮明に蘇ってきて、話さずにはいられないという感じだった。そして必ず、「自決」の話になる。「自決」しようとした際、親戚のおばさんが、「あの世に行っても、元気に学校へいくんだよ」と祖母に言った。祖母は「あの世に学校なんてあるか!」と怒って叫んだ。そして、紐を振りほどいて走って逃げると、それを大人たちが追いかけた。そのおかげで家族が助かった、という話だ。幼い少女が大人の言葉に怒り、「自決」から逃れた。この話を聞いて、私は祖母が生きていてよかったと思ったし、祖母もそう思っていると信じ込んでいた。何度も何度も、「生きていてよかった」と思った。

 しかし、高校生のとき聞いた祖母の一言で、その話を全く違う風に思うようになった。祖母の認知症が少しずつ進行し始め、体調を崩しがちになった頃、一度だけ祖母は「なんで生き残ったのかねぇ」とつぶやいた。とても悲しそうな顔で弱々しい声。衝撃だった。祖母がずっと繰り返し話してきたのは、自分が逃げて助かって良かったという気持ちではなく、生き残ってしまったという罪悪感や後悔の気持ちだったのだろうか。繰り返し話すことで、自分の生きる意味を確認したかったのかもしれない。そのことに初めて気づかされた一言だった。祖母が70年以上も、ずっと罪悪感や後悔の気持ちを抱えて生きてきたかと思うと、そんな思いをさせる「戦争」に腹が立った。同時に、祖母がこれまで私に話してくれた楽しい昔話や、歌ってくれた歌、家族で過ごした幸せな思い出も「戦争」によって奪われてしまうように感じた。

 私は、祖母の生きてきた時間を肯定するために、これまで祖母が話してくれたいろんな話や、一緒に過ごした時間をずっと忘れず大切にしようと決めた。大学生の頃に制作した『おもいでから遠く離れて』という映画では、祖母が楽しく生きた時間をどうしても描きたくて、子ども達が遊んだり歌ったりしているシーンを多く撮った。祖母の思い出を大切にすることで、祖母に「生きていてくれてありがとう」という気持ちを伝えたかったのだ。

 今、私が主宰している「あなたの沖縄」でも、自分が体験したエピソードやその時感じた気持ちを細かく書いてもらっている。話の一つひとつは、とても小さな出来事が多い。でも、そういった小さい、個人的な話こそ、大切に、丁寧に書いて欲しい。悲しい話や憤った話だけじゃなく、楽しかった話や笑い話も書いて欲しい。沖縄の日常や個人の体験を文章に残すことで、私たちや両親、祖父母が生きてた時間を大切にし、肯定したい。大切なものが、ここにあることを多くの人に知ってほしい。できれば、一緒に大切にしてほしい。そして、その大切なものを「戦争」や沖縄をめぐるあらゆる暴力が奪おうとしたとき、おかしいと気づいてほしい。それが、私が沖縄について発信している理由のひとつで、「あなたの沖縄」の活動を通して伝えたい思いだ。


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