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近くて遠い、遠くて近い

MAY(94年生まれ 那覇市首里出身)

 沖縄と海外を含む県外での生活期間がちょうど半分ずつになろうとしている。よくある話だが、私も離れてから初めて故郷を意識するようになった一人である。

 県外の大学に進学し、沖縄では赤裸々に語られないような基地問題に関する生の声を沢山聞いた。ある人に「沖縄の人は基地の話をする時に感情でしか訴えない」と指摘され、それに対抗するように国際政治学を専攻し、「学術的な視点」で基地の存在と向き合おうとした。沖縄の事をもっと知ってほしい、正しく理解してほしいという思いからだったと思う。今までの沖縄県民のアプローチでは足りない、感情的ではいけない、ともがくように学びを深めていった。

 ただ、地位協定の構造を学べば学ぶほど、どんなに「客観的」に考察しようとしても、湧いてくるのは「怒り」という「感情」だった。そりゃそうだろう。だって、自分が生まれ育った島で起こっているのだから。大切な故郷が基地を理不尽に押しつけられ続けているのだから。怒って何が悪い。今だったら堂々とそう反論できるが、あの頃の私は色んな意味で無知だったし無垢だった。初めて経験した「日本」の一部意見を、戸惑いながらも真に受けてしまった大学時代だった。

 大学ではマクロ的視点からの机上の学びが多かったが、社会人になって沖縄の生活史の本をよく読む中で、「生活の場」としての沖縄に興味が移り、同時に私の基地の見え方も変わった。

 誇り高き城下町、首里人のばあちゃんっ子だった私は、「那覇市首里」しか沖縄を知らない。自分自身を生粋の首里人と認識しているが、父はうるま市出身である。私が注意を払っていなかっただけなのかもしれないが、自分の生活や父から「中部色」をあまり感じた事がなかった。基地のそばで育った父の地元での生活を知りたくなって、帰省中にさりげなく聞いてみた。中部での生活、琉大進学で那覇に出てきてから今に至るまでの経緯を。

 高校生だった父は、基地関係者のアメリカ人講師の授業や基地内ハイスクールとの交流に刺激を受け、アメリカ文化や英語に興味をもったそうだ。そこから自力で英語の勉強を重ね、大学は英文科を卒業し、高校の英語教員となった。大学で出会った母と結婚し私と妹が生まれた。そこから私が記憶にある英語教員としての父は、心から英語が好きで、その楽しさを生徒に教えるまさに天職の姿だ。

 思い返せば、物心ついたときから家は英語で溢れていた。両親の娯楽に加えて、私が遊ぶゲームやアニメもアメリカ産が多かった。父の仕事で2年のアメリカ生活があったから、29歳になった今でも私は英語には困らず、むしろ英語メディアから吸収している情報が自分の半分を形成していると言っても過言ではない。

 アイデンティティの大切な部分のルーツを基地がある中部文化が担っているとしたら──。私はその存在を頭ごなしに否定できるのだろうか。父が親になる前の話を聞けて、父との距離が縮まったと同時に自分と基地との距離も近くなってしまったと正直戸惑った。

 大学時代に学んだ地位協定がある故に生じる構造的差別や理不尽に対する怒り。沖縄県民の訴えは客観性に乏しいと言われた悔しさ。これらの気持ちは全て本物だからこそ、基地の産物とも言える国際性や、その恩恵に授かっているかもしれない自分の関係性に複雑さを隠せなかった。

 今でこそセキュリティは厳しくなっているが、幼い頃は地域交流の一環で基地内に入れる機会がたまにあった。ゲートをくぐると異世界が広がる。そのワクワク感と特別感を今でも覚えている。日常と非日常が地続きになっている不思議な感覚。ディズニーランドの門をくぐったときのあの気持ちに近い気がする。

 父の学生時代は恐らく私の幼少期よりもっと容易に基地の中の世界と繋がることができて、フェンスの向こう側の「特別感」を日常的に感じていたからこそ、英語や欧米文化に惹かれたのかもしれない。

 祖父母の戦争体験や平和教育で培った平和への想いは、今もこれからも変わらない。その想いと基地文化を享受することが同時に成立するのかは分からないし、正解があるとしても知りたくない自分もいる。

 広義の「基地がある沖縄」に対する自分の向き合い方は、今後も新しい沖縄との出会いや自分を再発掘する度に変っていくのだろう。

 生後1ヵ月にも満たない息子の寝顔を見ながら私は想像する。

 彼が大きくなったら私は沖縄の何を語るのだろう。彼は「基地のある沖縄」をどう見るのだろう。そしてその頃の沖縄の景色はどうなっているのだろう。

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