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あの時、月の光に射貫かれて

朝起きて天気が良ければ、二階の窓から山を眺める。常念岳は北アルプスの中では決して高い方の山ではないが、その美しい山容は僕の住む街の象徴だ。特に冬の朝、凍てつくような澄んだ空気の向こう、輪郭を研ぎ澄ました山脈の中に一際白く均整の取れた美しい姿を目にすると、心が透き通っていくのを感じる。この街に暮らすことの素晴らしさを噛みしめる瞬間。



大きな港のある街で生まれたから、何故こんな山の中に、と問われることも多い。生まれ故郷はもちろん愛している。ふるさと、それは両親が結婚生活をスタートさせ、たまたま僕が生まれ落ち、幼年から青春時代までを辿ってきた街。僕の心を形作るようないくつかの出来事を経験させてくれた舞台であり、少年時代が奏でる友情と、幼く不器用な恋を育んでくれた街。色褪せた写真のようでいて、でもいつだって鮮やかに思い出せるふるさと。


一方で、今暮らしているこの街は、誰の薦めも誰の助言もなく、自らの意思で選びとり、自らの力で暮らしを切り拓き、慎ましい収入を得ながら、家族を作り、時に必死に、時に風に流されるまま、暮らしを営み、たくさんの足跡を残してきた街。ふるさとと同じくらい、いやそれ以上に愛を傾けてきた街だ。

ここに住む人々は理屈っぽく、時に気難しいが(僕はもともと余所者だからよく分かる)誰もがこの街を愛している。山と城と清冽な水、そして凜とした冷ややかな空気を、この街に暮らす人々と同様、僕もとても誇らしいものと思っている。



この山懐に抱かれた街で暮らした年月はいつの間にかふるさとで暮らした日々よりも長くなった。僕にとってはもう、どちらも本当のふるさとだ。



この街で暮らし始めた最初の夜、きっと都会では見ることができない満天の星空を眺めたくて家の外に出てみたが、それは叶わなかった。何故なら満月があまりにも明るく夜空を照らし、星々の光を薄めていたから。あまりの明るさに圧倒された。僕はその時まで月がこんなに明るいものとは知らなかった。僕のふるさとではこんなに濃い影ができるほどの月光を浴びたことはなかった。星空への期待を忘れて、眩しいほどの月明かりに心を奪われ、その冴え冴えとした光量に身を任せていた。いつしか流れ出した涙を止めることができなかった。



あの時、月の光に射貫かれて、きっとその時、僕の魂にはふたつ目のふるさとが萌した。こんなに長く暮らすことになるとは思ってもいなかったけれど、いつの間にかこの街は本当のふるさとになっていた。

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