走らない僕が走ることについて語る時に思うこと
最近は足の痛みもあって、走ることから遠ざかってしまっている。
かつては毎年マラソンレースにエントリーして、10km、ハーフ、フルのいずれかを走っていた。
遠くに遠征してまでレースに参加する気概はなく、近所と呼べる範囲内でレースに出ていたし、練習するのも近所だった。
走るのが楽しいとか、走るのが好き、と言えるほどの気持ちはなく、実験の対象として選んでいたような感じではある。
走ることに興味を抱かせてくれた対象は3つある。
高橋尚子さん
Born To Run
走ることについて語る時に僕が語ること
最初の高橋尚子さんは説明もいらないくらい有名な人物だ。
残り2つは本だ。
走ることについて語る時に僕が語ること、は村上春樹さんの書いた本。
高橋尚子さんを知って走り始めたけど、彼女のように楽しく走れないぞ、辛いばかりだ、と思って走るのやめようかなと思った時に出会った。
思えば、村上春樹さんの著書との出会いは小説ではなくエッセイだった。
エッセイを何冊も読んで、その次に小説を読んだことになる。
私の解釈だけど、走る理由は「好き」じゃなくてもいいのか、と思ってずいぶん楽になった。
走るのが楽しいとか好きじゃないと続けられないのだとしたら、私は続けられないなあ、でも続けたいなあ、なんて思っていたのだ。
別に好きじゃなくてもいいのだ。
小説家である村上春樹さんは、小説を書くという職業のために走っていた。
一見するとつながらないけど、なぜだかとても納得した。
なんとなく走り続けていられた時に、Born To Runに出会った。
「裸足Run」が流行り始めた頃だったように思う。
こういうのはなぜか流行り廃りがある。謎だ。
本質的なことであれば、流行りもクソもないものだと思うのだけど、、、。
Born To Runは人間が「走る」ということが全然特別でないことを教えてくれた。
現代は、走ろうとするとウェアを買う、靴を買う、時計を買う、走る場所を探す、仲間を探す…。
走るってもっとシンプルだと思っていたのに、走る前になんだか色々準備があるのだ。。。
走る動機も痩せるとかパフォーマンスアップとか色々言われる。
走るために走る、というシンプルな動機でいいはずなのに。
ウェアを選んだり、靴を選んだり、これらも走る楽しみの1つかもしれない。
私には違和感があった。
本を読んで、裸足でいいんじゃない?の気持ちがあったので。
現実にはアスファルトとか砂利とかの、足の裏を傷つけるような道が多いので靴を履いていたけど、過度に足を守るような靴は選ばないようにしていた。
とにかく軽くて、ぺらぺらの靴を好んで履いていた。
走った距離に応じて、靴は買い換えるといい、みたいなことを上級者(私よりもキャリアがあってタイムも速い人)から言われたけど、何年も同じ靴で過ごしてなんの問題もなかった。
「道具で差が出る」のを信用していなかった。
道具で差が出るってのは体の使い方がまずいんじゃない?くらいに思っていた。
ところが、NIKEだったかな?
厚底で床面との反発力を高める靴を作って、それを長距離ランナーが履き出したら、好タイムが出るようになっていた。
私に言わせれば、靴なしで出せるタイムがその人のタイムじゃない?だ。
もう走っていない私が何言っても、説得力もクソもないのだけど…
そんな折、ある駅伝レースがテレビで放映されていた。
あるチームの選手が、レース中に靴が脱げて、自分の区間を靴下のみで走っていた。
順位は上の方ではなかったので、映像はほとんど流れなかったけど、それを見てなんだか心踊った。
レース中に靴が脱げるって何?サッカーみたいに接触があったの?と疑問はある。でも、それはおいておこう。
全員靴なしでレースをしても、同じ順位になっただろうか?
道具の力を借りずに、人間の体のみで勝負した時に、勝つのは速いのは誰だろう?
そんな想像をしたら楽しくなった。
また走りたくなった。
しかし、足が痛い。
子供と一緒にサッカーをしていて痛めたようだ。
8割くらいでダッシュはできるのだけど、痛い。
走るのは諦めた。
走るのが趣味とか余暇活動になる。
トレーニングにもなる。
でも、もっと根源的なモノのようにも感じている。
移動手段だし、生命力のようにも思う。
足の痛みが治ったら、とりあえず散歩から再開しよう・・・
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