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「やうやう」米永あつこロングインタビュー(2021.6)


フリーペーパー「やうやう」vol.5に掲載の鹿屋市議であり、当時参議院選挙に出馬された米永あつこさんのロングインタビューをこちらにも掲載いたします。
米永あつこさんは第三回やうやう総会にも登壇いただきます。




本日はお忙しい中ありがとうございます。Nさん(米永さんを紹介してくれて方)とはどういったご関係なんですか?

私は、30年くらい前に、小物屋さん、喫茶店、バーをやっている時期があり、そのお店でNさんのお姉さんが働いてくれていたのがきっかけですね。そのお店は当時、若い女性が一人で飲みに行けるようなお店がなくて、「それなら、自分でしちゃえ」とはじめました。当時はアークビル(鹿屋の飲み屋街の最大のビル)が出来たばかりで、居抜きで入れるという話があり、当時11坪で24万の家賃で、これはいいなとはじめました。
それでも「なんでこんな高い所を借りるんだ!」と言われましたね。

何年くらいされていたんですか?

五年です。バブルは終わっていましたが、自衛隊の若い人たちが多く街におりている頃で、お店でカップルがよくできていました。それなら、結婚式の二次会ができるなと、25坪の店に移りました。毎週二組ずつ二次会がありました。

すごいですね。二次会は商売的にも大きいんですよね。それこそ僕の友人もコロナの前までは、かなり売上あげていました。もう閉めちゃいましたけどね。
(Nさん)「それは結婚する前?」

結婚する前。結婚して子どもができると一人目とかは、店に大きなサークル作って見ながら店をしてたけど、二人目、三人目が生まれたらどうしても大変でした。働く母親支援の、夜間や土日の保育、病院が全然ないことに変だなぁと思い、当時の議員の人たちに声をかけて、「こんな問題があるんですが、できませんか?」と訴えて回りました。
ちょうどその頃はリナシティの開発計画の時期で、そこに子育て支援の保育園や夜間託児所などを提案しましたが、全て却下でしたね。全然、市民の声を聞いてくれない市政なんだな実感しました。
その当時は「働かなくて、家にいればいいじゃない?」と言われて、けど、自分は働きたいし、これってなんかおかしいんじゃないの?とずっと思っていました。

実は、僕は元旦那さんと少し話を聞く機会がありまして、彼は昔からけっこう選挙活動に関わっていたようで、そういった影響もあったんですか?

彼の影響というより、その周りの影響が大きかったですね。店をやめて当時は彼の経営する南九州新聞で働くようになりました。そこでは元新聞記者の脇田さんのコラムや、元ハンセン病患者で北朝鮮国籍だった大村さんなどのコラムの原稿をもらっていましたので、入力する過程で「あぁこういう考え方、問題もあるんだぁ」となってきましたね。
働いていたときから思っていた問題点もそのままだし、それなら自分が(選挙に)出ちゃえ。ということで市議選に立候補しました。

その時はおいくつだったのですか?

40歳です。

最初の選挙で通ったんですか?

はい。

すごいですね。今もそうでしょうけど、鹿屋に女性の市議は少なかったと思いますが。

そのころは鹿屋に三人の女性市議はいらっしゃいましたけど、全員が組織に所属していて、無所属で当選したのは私だけでした。
最初の当選のときの後援会長だった方が、私の弟のお嫁さんのお母さんでした。その人が、やはりスナックをされていた方で、私も水商売をしていたので、誰とでも壁をつくらずに話にいけるし、フラットにお付き合いして多くの個人からの応援をいただき当選できました。

それまでの、あつこさんの仕事や人のつながりで当選したんですね。

もちろん、元夫とお父さんの力もありました。
出陣式は数人しかいないし、アパートの一室に電話を一つ置いて事務所として選挙でしたね。
これで、通るかな?とも思いましたが、個人個人で話すと手ごたえはありました。当時は、街頭演説をして回るというのは共産党以外ではしていませんでした。街頭演説は多くの人に声を届けることもできるので多い時は一日30件くらい回ってました。
続けると「知らない人だったけど、がんばってね」なんて声をかけられるようになって、楽しい選挙ではありました。

市議はその後、何期されたんですか?

二期しました。
途中、離婚もしました。離婚したので、子どもを三人育てるために市議もしながらホテルで皿洗いなどのアルバイトもしていました。本当に大変でした。

アルバイトですか??市議をしながら?

そうです。当時は子育て支援も少なく、議員は付き合いも多くて出ていくお金も多かったです。

国会議員も含めて、この国の代議士は冠婚葬祭などの付き合い、地元の運動会や祭りに顔を出したりととても大変そうですよね。僕なんかは本読んだり、勉強会に参加したりする方が重要だと思っちゃいますけど、そうも言っていられないんでしょうね。

人それぞれだと思いますが、長く市議をされている方はとにかくマメですね。

二期された市議会議員の活動はどういったものだったのでしょうか?親が政治家だったり、どこかに所属しての政治活動でもないわけですが、手ごたえのようなものはありましたか?

当時鹿屋には「黎明の会」という市議のグループがありました。そこの代表の野田さんという方がいました。彼は自民党議員で有望な方でした。別な方からそのグループに誘われましたが、野田さんからは「アッコちゃんはこのグループには入らずに、自分の活動に集中して、長い物には巻かれる必要はないよ」と言ってくれました。何かあったときには何でも相談してくれたらいいから。と応援してくれました。

それは、やはり鹿屋の市議とはいえグループや会派に入ると、やりたい政策も縛られるということだったのでしょうか?

それよりも人事ですね。人事を確保するためのグループなんですね。新年度になると常任委員会の役員を決めます。昨年までは4つの常任委員会があって、文教福祉委員会、総務委員会、建設委員会、市民環境委員会です。それと特別委員会として予算委員会、決算委員会。それの役を取りたい、それだけのために集まっているという印象ですね。

それは、やはりその役をとると何かメリットはあるのですか?
いわゆる族議員の方が自分たちがしたい政策を実現できるという感じなんでしょうか?

そうだったらまだいいのですが、専門的な知識に乏しい議員が多い印象ですね。

それでは、実際の政策は役人が決めているというのが現実ですか?

そうです。国会と地方議会の違いは、国会は与党、野党に分かれて議論するのに対して、地方議会は行政側、市役所側がすることをチェック、修正することが主な役割ですが、他の地方自治体はわかりませんが鹿屋市の場合は議員が役所に忖度しているような状況ですね。とても残念です。
これまでで、一番大きな問題は、合併問題と再開発(リナシティ)問題でしたが、そのときは超党派で戦いましたね。

落選した後は、どうされていたのですか?

資格もなにもない50才ちかい女性をどこも雇ってくれませんでした。そこで、財宝温泉に募集もしてないのに押しかけて、面接をお願いしました。そこで雇ってもらいました。その後3.11がおこって、恐ろしく忙しい状況になりました。

あのときは財宝温泉はとっても忙しい状況だったみたいですね。

財宝温泉では、コールセンターお客様対応係をしていました。三年後は取締執行役員までにしていただきましたね。市議の時代より多いお給料をいただけて、子どもたち三人を育てることができたのですが、当時、鹿屋市議をしていた道下さんからお電話をもらい「あつこさん、社民党から選挙にでらんけ?(出ませんか?)」と言われました。
ちょうどその前の年に、特定秘密保護法だったかな?その法の改正があって、この国が進む方向に大きな疑問を持っていました。そのタイミングもあったので、とても悩みましたが

それは悩みますよね?

でも、私は基本的に悩んだらやるんですよ。(笑)

なんか、商売人って感じしますね。僕も商売人なんで、そんなところがあります。(笑)

すぐに会社に言って、やめました。自己都合ということで、平社員での退職で退職金もでませんでしたが、とてもお世話になったし、多くの人と知り会えたので感謝しています。
その選挙は、道下さんたちと新しい選挙のやり方で戦いました。それまでは個人でどんどん飛び込んで行って、誰とでも話して、選挙が終われば名簿も捨ててという感じでしたが、道下さんたちと戦うのは、社民党という組織選挙でした。一つの目標のためにみんなでお金を出し合ってチラシを作ったり、演説の場をつくってくれたりと、知らない人たちが労を惜しまずに協力してくれて、「こんな選挙があるんだなぁ」と思いました。それが信じられなくて、あるとき「社民党のひとたちは、おかしいのかな?なんでこんなに私のために動いてくれるんだろう?バカなのかな?って思いました。」って話したことがあるくらいです。(笑)

(笑)

世の中の、危うさ、情況に危機感を持っている人たちがこんなに多くいるんだと知ることができました。嬉しかったですね。

具体的にはどういった人たちなんですか?昔の社会党でしたら、組合系の人とか社会運動家の方なんでしょうが、ここ鹿屋ではどういった方たちがいらっしゃるんですか?

やはり、組合の人が多いですね。その中でも別の市議の方は学校の組合に支えられてて、私は郵便局とか、バスの運転手とか、食肉関係の組合にも応援いただいてます。

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