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『ある男』平野啓一郎 感想

久しぶりに長編小説『ある男』を読んだ。
それも現代作家。
平野啓一郎氏の小説を読むのは初めてだった。
 
とっても文学だった。
そして現代に生きるリアルな人間として、大人として、親として、日本人として、というリアリティの伴った。
 
扱う世界はポピュラーではないかもしれない。
しかし、ここで紡がれる人間の、人間ゆえの複雑な絡み合いは、ものすごく普遍性に富んでいる。
そういうのが“文学”なんだと言える。
 
1人の人間が経験できることなんてたかが知れている。
無条件に共存社会を強いられる人間にとって、他者との関係性は生きる上で重要なファクターでもある。
経験出来ないことを、ある媒体を通して自分以外の何か、を知ることは人間以外には出来ない。
合理主義の暴走は人間が持つ人間たるリソースを放棄することに他ならない。
経済成長を達した社会において本来必要になるのはやはり人文知だと思う。
そういう意味で、ギリシャ哲学は既に人間を取り巻く人間社会における多くの問題を抽出していた。
一神教の前に存在した古代の民主国家は、人間の本質に対して恐ろしいまでの洞察を交えて解釈を試みていた。
 
この小説にも神話のエピソードがある。
現代においてもなお参照できるのだ。
人間というのはそんなに変わっていないのだと気づかされる。
 
映画化しそうなストーリーであるが、やはり内面を言葉と文章の芸術によって紡ぐ小説を映像化することは、多くの場合失敗する。
しかし、それを失敗させない方法がいまはある。
それがNetflixを代表とするネットメディアだ。
 
昨年のアカデミー賞において注目されたNetflix配信映画の『ROMA』がある。
また、この配信会社のオリジナル作品が凄く高い評価を得ている。
つまり、文学作品の映像化において、原作者が納得いく結果を得るための、時間と資金の調達において、好意的な現実性としての可能性があるということだ。
新たなメディアはクリエイターにとってプラスに働く要素が多いと思う。
忖度せずに作品を作り、発表できる環境がクリエイターにとって一番幸せだと、本来は思う。
しかし、“お金”のため、と思っている商業クリエイターはそうはならない。
 
自分を信じ、貫き通すことが芸術である。
芸術で食っていく、と思った時点で、現代においてはそれは商業芸術となる。
難しいが、質と言う意味で、その境界線は存在する。
 
商業だからつまらないということではない。
楽しみ方はいくらでもある。
しかし、そのレール上では絶対に存在しえない凄みが本質的な芸術にはある。
 
芸術家は売れようが売れまいが、絶対に妥協してはいけないのだ。だから物凄く偏るのだ。
 
 
 
小説の話に戻ろう。
現代社会の日本における多くの問題が、1つの数奇な物語の中に集約されている。
それでいて、違和感は全くない。
一つの側面で見ると、ミステリー、としても成立する作品だが、東野圭吾のようなエンタメ性によって導かれる展開ではない。
ほぼ全ての展開において私は腑に落ちたし、問題の複雑さにやるせなさも感じた。
 
 
自分は日本人だし、日本で育ったし、だから一番分かるのが日本であるはずなんだと思う。
外国文学も好きだが、おそらく勝手な解釈が沢山入り込んでいるはずだ。
日本文学でも明治大正昭和初期なんかは、勝手な解釈だろう。
しかし、受け継がれて今がある日本という筋はあり、それは他国のそれよりも絶対に理解の幅は大きいはずなのだ。
 
平野啓一郎氏は政治的発言を厭わない。
積極的に発信している。
彼の作品を読むことで、それは腑に落ちる。
 
久しぶりによい文学に触れた気がした。
何気に今はドストエフスキーを読み直したい。
 


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