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振り返る舞台裏遍歴 後編


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京都時代 後期

さて、30歳になろうかという時に、地元の幼馴染から連絡が来た。
あ、漫画は23歳を最後に描いていない。
大学の通信教育期間はモラトリアムと思ってインプットがメインだったが、京都に渡って映像の仕事に就いてからは余裕が無くなってしまったのもある。

そもそも映像の仕事をしようと思ったきっかけは、いずれ映画を作りたいと思っていたから。
本を真剣に読み始めた高校時代、同時に映画も趣味の一つになった。
名作と言われる作品を片っ端から観ていったが、10代で理解できるかというとかなり難しい作品もあった。
知識と経験を積んだ後に観返したとき、ようやく理解できた作品が数多くある。

脱線したが、友人からの連絡は「東京で面白い仕事をしていて、映像を使ったコンテンツをやりたい」という内容で、まさに映像をやっていた自分へのお誘いだった。
正直、京都生活は極貧で限界を感じていたこともあり、ここが潮時と思い、地元へ帰る決心をする。
京都は別世界で魅力の尽きない空間なので、終の地としてまた戻ってきたいと思った。

そんな京都時代、自主映画を2作制作した。
1本目は家庭用ビデオカメラで撮ったセリフのない字幕ものだったが、2本目は業務用の小型ビデオカメラ(ミニDV仕様)を購入し、気合を入れて撮影した。
その作品がこれ。
意味不明、ホラー、と評されることも多いが、はまる人ははまる、いわゆるカルト系作品!(笑)

東京時代

東京では友人と一緒にニッチなエンタメワークをしており、映像コンテンツもその一つだった。
まだまだ素人の動画投稿などない時代。作った映像はWebページで公開したり、メディアにして販売をしていた。
Webは興味があったけど、昔ホームページビルダーを買って挫折した経験がある。
しかし、自分たちのコンテンツを自由にWebで表現したい、と思い、一念発起してWeb制作に再び挑戦することを決めた。
これも基本が大事だと思い、アプリに頼らず『メモ帳』でコードを書いていく方法を取った。
苦戦しながらも案外この方が理解が速く、酷いコーディングであったが形になった。

地元へ戻る

この経験がまた、その後の人生を大きく左右する。
巡り巡って友人と共に独立し、5年近く仕事をした後、東京から地元へ戻って就職をした。
その募集要項が、『Webと映像』だったのだ。
自分にとって初の就職だった。
一度事業主になった後の初就職という、異色な人生。

Web技術と映像制作の需要はIT時代には歓迎されるため、資格もない自分にはかなり重要なスキルとなっていた。
これも色々な縁が導いてくれたのだな~、としみじみ思った。

転職~現在

そんな地元の仕事も何かが違う、と思い40を超えて転職を考え、運よく趣味で続けていた音楽関係の仕事に就くことが出来た。
もちろん、ここでもWebと映像の経験が重要だった。
面接ではこれまでの制作物を、仕事と趣味の両方から提出した。

ちなみに音楽はバンドはしていなかったけど、ずっとギターを続けていて、やがてVOCALOIDを使用して作品を作ることになる。
そのVOCALOID曲では2016年に作成した4曲入りのミニアルバムが、自分でもかなり自信があったので、プレスCDを制作した。
※画像クリックするとYouTubeリストへ飛びます。ジャケットデザインはDakenさん

迷宮季譚ジャケ1600


これと共に最新の自主映画のブルーレイも一緒に面接時に提出した。


ということで、今現在である。

音楽と映画の創作はこういう流れで続いている。
ただ、漫画に対する想いが消えたわけではなく、ストーリーを作ることの方が絵を描くより好きだったので小説を書きたいと常々思っていた。
しかし、その敷居は高く、ネタを溜めてはいたけども形には中々することが出来なかった。
それを昨年、コロナ禍で出来た休暇を利用し、長編を書き上げた。
(『ネット小説大賞』で第1次審査通過)
それがこちら。(ペンネーム使用)
※イラストはDakenさん

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やりたいことは、特に若い時分はリスクを考えず飛び込んだ方がいい。
ネットで回答を求めず、ネットの情報で諦めず、飛び込むこと。
それが出来れば、自ずと先が見えてくるような気がする。
ネットへのアクセスをほどよく絶つ。結構難しいが、出来るはずだ。
私もつい最近、Twitterを見るのをやめた。(仕事のは見るが)
とても快適になった。

noteもまた時間の配分は気にしないといけない。
フォロー、フォロワーとの関係もいい意味で『緩め』がいいな、と思う。

さて、次は何を創ろうか。

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