見出し画像

Nevermind (Nirvana) #私を構成する42枚 より

私を構成する42枚
より21枚目の紹介はNirvanaの『Nevermind』(1991年)です。

遂にこのアルバムを語るときが来てしまいました。

自分にとって、本当に重すぎる作品なのです。
音楽によって自分の人生の何かが変化する、ということは程度の差はあれどそう言い切れる存在はそれほど多くはないと思います。

私にとって、それはNirvanaとPinkFloydという二つのバンドになります。

ということで、今回は今までとはテンションが異なる記事になりそうですが、お付き合いいただければ幸いです。
※Wikiで分かりそうなことは極力省き、私的なエピソードを中心に書きたいと思いますので、作品を知らない方はご容赦ください。

私がNirvanaを知った時期については過去の記事にも書きましたが、既にバンドの要、カート・コバーンはこの世にいませんでした。
知ったのは死後半年後くらいでしょうか。

高校時代の友人から洋楽HR/HMの洗礼を受けた際に、当時の流行からグランジもそこに含まれていました。
Nirvanaは既に伝説化しており、数々の特集記事も出されていましたので、ネットがない時代でも情報はたくさんありました。
といっても、そのバックナンバーやブートレグCDを漁りにお茶の水の古本屋街へ足を運んだのは言うまでもありません。

私はあまり洋楽の歌詞の意味について拘りがありませんが、NirvanaとPinkFloyd、KingCrimsonは別次元でした。

Nirvanaは特異な楽曲とカートの絶妙な歌唱が相俟ってそれだけでも魅力がある存在ですが、カートの自死によって歌詞に刻まれたメッセージが神格化されたことでシンボリック性を加速させたと思います。
私自身はそういうのにあまり影響されない方ですが、Nirvanaの場合は別でした。
そういう意味で次作であり遺作ともなった『In Utero』が最も心に突き刺さる作品であることに異論はありません。

しかし、何といてもやはり『Nevermind』の衝撃はそれをはるかにしのぐと言ってもいいでしょう。
これがあったから『In Utero』もしっかり評価されたと思います。
『Nevermind』はとてつもなくメジャーな作品でありながら、それにふさわしい完成度を持っている作品だと言えます。

冒頭で「音楽によって自分の人生の何かが変化する」作品はNirvanaとPinkFloydだと書きましたが、それは具体的には、それに嵌った一時期は「それしか聴かないモードに入る」ことです。

Nirvanaに心酔した時期がありました。
ほぼそれしか聴かないし、カート・コバーンという人物について調べつくすということをしていました。

あれから30年以上も経ってしまいましたが、それについて色褪せることはありません。
今聴いてもとても重く、ずっしりと、かつ新鮮な響きを心に与えてくれます。

この時期に出会った今でも親交のある友人も、当時薦めたNirvanaが人生において大きな影響を及ぼしたようで、立派な信者となっています(笑)

さて、次に私がカートに影響を受けた理由を書きます。

高校3年の当時は洋楽HR/HMを聴き漁っていた時期でした。
そこにひょっと現れたグランジという新ジャンル!
私の洋楽の師匠である同級生のTはサウンドガーデンやアリス・イン・チェインズも薦めてきましたが、当時は受け入れることが出来ませんでした。
今ではがっつりはまってますが……

カート・コバーンのメッセージ性はその後社会問題ともなる『鬱』ともかなり関係していると思います。
「生きづらさ」というタームが違和感なく浸透している昨今ですが、冷戦の終わりによって世界の秩序は混沌とし、今なおその収束地点を見いだせていないと感じます。
それは多分にテクノロジーの進化が影響しているとも思います。
恐らく、テクノロジーがここまで進化しなければ、ポスト冷戦の社会秩序はそれほど時間をかけずに出来上がった気がします。
テクノロジーがそれを阻害し、なおかつ新たな問題を提起したと、今は考えています。

カートはそんな時代を、人間的な嗅覚によって先取りしていた感があります。
そんな鬱積を音楽に落とし込んでいると感じます。

Nirvanaの商業的な成功が、その鬱積をより深刻化させてしまったと思います。
もし、カートがこれを乗り越えたなら、新たなメッセージを発することができたのだとも思います。
でも、そうであればここまでの作品は出来なかった、とも言えます。

私が彼に共鳴したのは、自分も進学校の雰囲気に違和感を覚え、漫画家を志望して大学進学を拒否し、卒業後はフリーターをしていたので、強烈なシンパシーを感じたのは確かです。
しかし、それはまた若さゆえの冒険であったと、今は総括することができます。
でも当時はそんなことは出来ないのです。

自分に嘘をつき続けることが出来ないクリエイターであれば、カート・コバーンはたとえカリスマとしてのアイコンになろうが、ずっと好きでいられる対象ではないかと思います。

ということもあり、Nirvanaというバンドがある意味で一人歩きし、伝説化されようが、私にとって次元の違う存在であることが変わることはありません。
音楽的に、テクニック的にどうとかそういうレベルの話ではないのです。
その存在そのものが至高となって私の中に生き続けているのです。

だからリンクを張りません。
消費的にその片鱗を齧っても何も得られないからです。
それはもう、その世代を生きた人にしか得られることができない体験というものだと思います。
それは誰かに薦めることでもなく、ただ純粋にその思いを語り記すことではないかと思います。

noteのフォロワーさんである人生の先輩方の幾人かは、そんな想いをご自身のエピソードを添えて語られています。
それはとても貴重な記録だと思って拝見させていただいています。

音楽はそれ単体でも鑑賞可能な芸術ですが、人が語るということは、その人にとっての歴史が存在することでもあります。
そうしたエピソードが何よりも心に響くのだと、私は感じています。

SNS、ブログときてnoteに辿り着いた方もいると思います。
日本人としては、mixi由来の交流がやはり嬉しいと感じます。
noteは日本のSNSです。
その良きエッセンスを現時点では残しつつ、商業的にも利益を上げる二刀流をしているように感じます。
商業的な利用については、必要悪的には感じているのでそれでいいと思いますが、ホンモノを求める人にはいささかノイジーなアルゴリズムも感じています。
仕方がありません。
ポストカート・コバーンを生きる我々には、それを甘んじて受け入れつつ、ネットという荒野の中に、生きてしまっただけの何かを遺す必要があるかと思うのです。

リンクはしない、と書きましたが、敢えて、この曲を埋め込んでこの記事を締めくくりたいと思います。


この記事が参加している募集

思い出の曲