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国学と明治維新のイデア 「もののあはれ」という日本の伝統思想

本稿は立憲君主制と天皇機関説と日本の歴史は、非イデオロギー的なものであるということを示すものです。
幾つかの例外はあるとはいえ、基本的に日本の伝統思想は、「もののあはれ」という実体を観察する科学的リアリズム天皇制という立憲君主制を重んじるものであって、これは近代民主主義につながるものであったと言えます。
松井様への返信でありますが、ここだけは特別な装丁にしたので、松井様の記事を読んでいない方も、是非ともお目通し願います。

松井様の疑問&私の返信

>例えば、天皇による国の統治も日本という国の在り方をイデオロギーにまで昇華させたものだと思います。


イデオロギーというものは、観念形態であるので、実体観察に先行して決定されるものとなります。
基本的に政教一致は全てイデオロギーとなります。(スターリニズムや毛沢東主義はイデオロギーの典型です。)
マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、資本主義自体がプロテスタントに基づいた政教一致のイデオロギーであると訴えました。
実際に、アメリカの白人至上主義者は、プロテスタント原理主義と資本主義と人種差別をセットにした政教一致の政治を求めております。
王を否定したアメリカ人は、神を求めて政教一致によるカルト政治を行うわけだが、彼等は権威主義を実現するために民主制を望むのだ。
王が議会を開く立憲君主制の国家(イギリスや北欧)の方が、遥かに民主主義的であるのが現実である。
民主制権威主義(アメリカの民主制)VS王制民主主義(北欧や日本の立憲君主制)


そして、天皇による国の統治とは、それは単に絶対王政という手段であって、それ自体がイデオロギーとはなりません。
「天皇が統治していなければ日本ではない」若しくは、「絶対に天皇が日本を統治しなければならない」という理論ならば、イデオロギーとなります。
何故ならば、仮に天皇制が無くなったとしても、法的な存在、生産能力的な存在、国境としての存在、言語・文化的な存在としての、実体としての日本が消滅するわけではないからです。
天皇制は立憲君主制として国家に有効な意義があるため、これは肯定するべき」という意見であるならば、イデオロギーではなくて、政治思想となります。

日本史において、天皇による国の統治が成立した試しは殆ど存在せず、明治以降も元老を始めとした議会制の立憲君主制です。
世界史において普通選挙は徴兵と引き換えの権利でありますが、大正時代にはそれを達成し、天皇機関説という立憲君主制の民主主義が理論化されています。

そして、江戸時代の水戸学は、当時は儒教以外の思想は弾圧されたため、儒教の理論を用いて幕府に反論する必要があったという世相を知る必要があります。
当時は、幕府が言論の自由や科学技術を弾圧し、「地球は箱型」であると唱えるような専制を行った時代です。
水戸学の中にはイデオロギー的なものも存在しましたが、幕府の身分制支配、儒教による政教一致のイデオロギーに対しては、別の論理を構築する必要があり、それに天皇制=立憲君主制を用いただけのことでしかない。


1930年代の天皇主権説による天皇機関説の排撃~太平洋戦争の敗戦までは、国家としては例外的な事態となります。
天皇主権説は、日本史の歴史を無視した妄想観念であって、これはイデオロギーと呼ぶに相応しいものです。

>また、実体とは、どちらかというと【西洋的】ですよね。
物事の根底にあって持続し続けるものとなりますし、それを観察というのも西洋の自然科学的思考スタイルに思われます。
もちろん、日本でも富永仲基のような人物がいますので、そういう思考スタイルがなかったわけではないのですが・・・


西洋哲学において、ものごとの根底にあるとされるのは、実体ではなくて、法則です。
そして、それは単純な観察ではなくて、省察によってしか捉えられないとされました。
法則は普遍のものであるとされましたが、これが不変のものであるかまでは定かとはされませんでした。
(現代物理学においては、物理法則もいつかは宇宙の膨張によって変化が起こるのではないかとされていますね。)

以上がプラトンのイデア論です。
プラトンの場合は、法則は実体と繋がっているとされ、イデアと実体は分離したものではありませんでした。

とはいえ、プラトンよりも千年以上後のドイツ観念論では、キリスト教の影響によって、「法則は実体を否定しうる」という思想が存在しています。
「実体の存在は証明できず、故に実体は妄想である。」かのような論理も発生してきます。

実体が仮に妄想であったとしても、我々は実体と関わって生きていくしかないのです。(サルトルのアンガージュマン)
ですが、プロテスタント原理主義者は、生前ではなく死後にしか関心がないため、この論理を使って生前を否定していて、これはニーチェが指摘したものです。

本居宣長が否定したのは、論理ではありません。
彼は医者であったので、観察を重視しております。
本居宣長が否定したのは、幕府の儒教の屁理屈=実体の無視です。
幕府の政治とは、言論の自由と科学技術を弾圧し、身分制度のために人間の感情を否定し続ける儒教的専制そのものでした。
人間の感情は理性と繋がりを持ったものであり、感情を否定すれば理性も崩壊し、権威主義や屁理屈に走ることになります。
本居宣長の「国学」は、身分制社会の抑圧された人間の精神の否定であって、これが明治維新に繋がったわけです。

実体を無視した屁理屈(観念)と、実体に基づいた論理(イデア)は完全に別のものです。
そして、イデオロギーとは、イデアではなくて、観念に過ぎないものです。

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