「彼女は頭が悪いから」ブックトークへ行ってきた。

姫野カオルコ先生の「ツ、イ、ラ、ク」が人生で一番好きな本で、姫野作品も元来好き。だけどこの本はちょっと特別に、自分の心にぶっ刺さってしまった。

「彼女は頭が悪いから」は2016年に起きた東京大学のインカレサークルの学生が中心となったある女子大生へのレイプ事件を題材にした作品だ。

事件当時被害者が「未来ある青年たちの将来を台無しにした勘違い女」と批判を受けたことに起草し、女子大生の美咲と東大の学生であるつばさの出会いから事件までを描いている。

美咲という人物がどのように人格を構成していったのか、つばさという人間が構築された外的要因や背景などを、互いの学生時代のエピソードから丁寧に丁寧に紡いでいくその「ヒメノ節」は「ツ、イ、ラ、ク」の頃から変わらず圧倒され引き込まれていく。そして、引き込まれてしまうからこそ、訪れる悲劇が読者に嫌なものを残す。ある瞬間の美咲のどんくささや、ある瞬間のつばさの惚れ惚れするほどの合理性は、例えばガラスに小さな傷をつけていくように殆ど気づかないまま読者に刷り込まれ、終盤の悲劇が起きるその頃には取り返しのつかない傷となっており、更に、その傷に悲鳴をあげたくなるほど塩を塗りたくられるような、とにかくそんな、ものすごい痛みのある小説なのだ。

さて、自分がそれでも格段にこの小説にのめり込んでしまったのには私自身のバックボーンも関係しているだろう。

東京出身で中学受験を経験した自分は小学5年生の時に、自分とは全く違う脳みそでもって、難解な問題を解き進めることのできる人間がいることを知った。大教室で共に試験を受けた彼らは日暮里だとか広尾だとか江古田だとかにある学校に進み、その後自分とは関わりのない人生を送っていくのだろうと「N」とかのバックを背負うその背中をなぜか他人ながら清々しく見送った記憶がある。

付属の女子大がある学校に進んだ私は、付属大学への見学で新宿から1時間半中央線に揺られ辿り着いたそこの、牛も鳴くほど牧歌的な雰囲気に気後れした。自分はここにはいたくないと思い大学受験は頑張ったけれど、小5の時に見送った背中に到底届くはずもなく(というか、目指しもせず)それなりの私大に進学した。

それでも。

選民意識はあった。都心の学校に通う自分。予備校で知り合った小学校から私立に通う子達が「親の職業は言えないの」なんて言ったりするその高貴な雰囲気を自分のことのように誇らしく思い、大学に進んでからも中学や高校の友人たちとつるみ何か、都会人である自分を必死に守ろうとしていた。

自分の環境には、美咲的人間も、つばさ的人間もどちらもいる。逆に、地方から出てきたエノキのような人の劣等感には共感できないし、偏差値ではなく学びたい学問で大学を選べる勇気は自分にはとてもなかった。

その価値観は、いつ、どこで、誰が私に「刷り込んだ」のだろう。いや、私はどうやってその価値観を「刷り込まれに」いったのだろう。

さらにいえばわたしが「わかる」とした、美咲的な呑気さやつばさ的な洗練も、果たしてどれだけ、理解しているのか。

つばさとエノキは同じ東京大学の人間であるが、お互いの抱える挫折や自分が支えにしている自信を分かり合うことはできないだろう。
つばさは兄や、自分より恵まれた環境に置かれた本物のエリートたちに対し苦虫を噛むような思いをしていただろうし、エノキが飾ったであろう故郷の錦は、その故郷が東京という場所から遥か離れていたとしても彼の心の中で輝き続ける。
そのように、辿り着いた場所がたとえ同じだとしてもこれほどに彼らの背景は異なるのに、ましてや、偏差値、家庭環境、そして性別の異なる人とどうして分かり合えよう。
どうして、その人の痛みを理解しえるのだろう。

私はこの本を読んだ時に、つばさがなぜ自分が罪に問われたのかを最後まで理解できなかったこと、美咲はなぜただ幸せになりたかっただけなのにこんなことになってしまったのかわからなかったこと、
その、「分かり合えなさ」に恐怖のようなものを感じ、本作をホラーのカテゴリに記憶した。

そして奇しくも、今回のブックトークでは同じような事態が、起きていたように感じる。

ブックトークにおいて、東大出身の瀬地山先生はずっと、作品のディティールの杜撰さを指摘し、姫野先生は「そらほんま、すんません...」「ドナドナを唄いたい気分やわぁ」といかにも姫野先生らしく、小さくなっておられた。

分かり合えないのだ、人は。

瀬地山先生によって、東大以外の人間は、その本のディティールの齟齬を、“知った”
姫野先生によって、この本が東大を貶めるために書かれたわけではないということは“分かった”
でもそれは、分かり合えた、ということではない。

言葉を尽くしてさえも、分かり合えない
でも、そのことを人は忘れる。

分かり合えていないということを忘れてしまうから、言葉無き出来事に自分勝手に余計な解釈をしてしまう。
そこに怒りが生まれる、苛立ちが生まれる、申し訳無さが、諦めが、悲劇が生まれる。

事件なんかと同列に語るのはあまりにも暴論かもしれないが、皮肉にも瀬地山先生と姫野先生の構図は、最後にはつばさと美咲と、オーバーラップしてしまった。

今回のブックトークでは、同じようにこの本に共感し、嫌なものを覚えた人たちが集まり、その気持ちを共有するものとばかり想像していたが、あまりにも事態は違う展開を見せた。

司会の小島慶子さんが美咲の気持ちがわかると言い彼女のようなキャリアの人がまさかそんな、と思ったし、質疑応答で手を挙げた沖縄出身の東大生の辛辣なエピソードは自分の知る“つばさ的な”東大生とはかけ離れており驚嘆した。

書籍はその多くを、1人で読み、咀嚼し、昇華する。
私なりのこの本への解釈や共感を分かち合いたくて、引き寄せられるように訪れたこのブックトークで、くしくも自分が一番のポイントだと感じていた「人が分かり合うことの難しさ」について忘れていたということに気付かされた。

この本はあまりにも、読む人に多様な解釈や感情を与える魔物のような書籍だった。

登壇者たちの小脇に抱えられた書籍の表紙で、少女が手に取っている林檎が不気味に光っているような気がした。


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