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おかしなモノは可笑しい、たけし式・新興宗教経典「教祖誕生」

気をつけよう 暗い夜道と お手かざし

※以下、自分の考えを述べますが、宗教というものについて様々な考え方があるので、それを一方的に腐すつもりは一切ございませんのでご了承ください。

「2週間の断食で神様になれるぐらいなら、山で遭難したやつみんな神様になっちゃうよ」

どうです?この名言。
私のnoteでは、過去にバチカンのエクソシスト」「N号棟で宗教について、主に否の方向でいろいろ書いてきた。
もちろんこれからも書いていくことにはなると思うが、一つだけちゃんとしたスタンスは残しておかなければならない、なぜなら「宗教」と名が付いたら全て否定、Fuck Offではないから。

私には、私なりの自分を幸せに出来る手段をいくつか持っている。
酒は飲めないから美味しいもの食べたり、新日本プロレスを観たりすることがパッと思いつく、自分で手を伸ばせば手にできる私自身を幸せにする手段だ。
もっと根幹にあるところを掘り進めていくと、例えばサタニズムデューディズムのような映画やカルチャーから進化した生き方・考え方は、私が生きる上で素直に共感できるもので、自分が何かに迷ったり困ったりした時に、「自分の中にある主体」を確かめるために引き出すことがある。
「サタニズムならどう考えるだろう?」
「デューディズムならどうやり過ごすだろう?」
そんなライトな使い方をしている。

ある意味ではこれは宗教なのかもしれない。
では、昨年話題になった統一教会などと何が違うのか?それは、自分を自由にするために存在しているものだと私は考える。

【自分が幸せになるために持つ信仰】
【信仰があるから自分が幸せになる】

この2つは、言葉をひっくり返したもののように一見見えるけれど、明らかに違う物質なのだ。
主体が【自分の幸福】に置かれているか【信仰自体】にあるかで、この世界の【信じる】という意味は姿形を変えてしまう危険なものである。

私が思う多くの信仰及び宗教の多くは必ずと言っていいほど後者に行き着いている気がする。
なぜ自分が幸せになるために

・誰かを勧誘を必要があるのか?
・交友関係を制限するのか?
・選挙の自由を捨てるのか?
・休日に子供連れて家を回るのか?
・お布施という名のカンパがあるのか?
・神社をくぐれないのか?
・ただの本やら雑貨に何百万払うのか?
etc...

そして、なぜこれらをしないと幸せになれないと自分たちを縛り付けるのか?

そこには自分の中にある自由と幸せという主体が欠落していて、信仰の中に自分の幸せを預けてしまっていると思う。
得てして、信仰の中に幸せを預けてしまう人は、信仰に苦しみ信仰に縛られていく。
この作品は、信仰心を逆手にとった司馬を用意することで、信仰に対する強烈な皮肉と信じてしまった人たちの悲哀を描いている。

ニセモノの教祖やれって言っただろコノヤロー

無能な初代教祖と、宗教を金の沸く泉と考える司馬(左)と呉(右)

高山(萩原聖人)は帰省中に「真羅崇神朱雀教」というインチキ教団に出会い、興味本位で同行することになる。そのインチキ教団は爺さんを教祖として扱い霊感商法で金稼ぎを行っていたが、自身をホンモノの教祖と思い始めた爺さんの使い勝手が悪くなってきたので、司馬(ビートたけし)は爺さんに虐待を重ねた上で追放する。
そして高山を2代目の教祖にしようと目論むが、この教団の信仰と初代教祖を心の底から信じる駒村(玉置浩二)との対立が発生してしまう。

というストーリー。
もちろんというか、それこそお米のように例に洩れず私も北野映画のファンである。
この作品はビートたけし原作小説の実写化だが、初期北野作品の監督補・天間敏宏氏が監督をしているため、実質的には北野映画ではない。なので、北野映画独特の余白や叙述的・圧倒的な画の説得力は含まれていないのだが、イイ意味で普通のドラマが淡々と進んでいて分かりやすい。
そもそも、ビートたけしや玉置浩二という異質な二人が主軸にいて、そこに雀士・変人・CUREのやばい人である萩原聖人がいて、ダメ押しでミスター悪徳業者・岸部一徳も鎮座している。この十分すぎるほどの異界キャスティングは、映画的な魅力に溢れていて、すごい説得力を生んでいる。

「あんたの話を聞かせてよ」でおなじみ
伝道師・萩原聖人

また、この映画はバランス感覚も素晴らしい。
基本的には、無能教祖さまに集まるインチキ宗教団体が詐欺紛いの商売をしながら各地を回るロードムービーなのだ。
教団のみんなで弁当食ったり、意味のない修行したり、寝取った・取られたの喧嘩をしたり、そこにビートたけしの暴力とユーモアがツッコミのように差し込まれる。藤井尚之の音楽も相まって、いい空気が漂っているのだ。

内容に関しては、一見原作者である殿による宗教を揶揄する作品に見えなくもないが、実はよく見るとそんなこともないような気がする。
なぜか?
それは、信じることで救われてる人たちとその人たちから搾取する人間両方を冷静に描いている作品だからなのではないか。
決して、宗教に対する一方的な揶揄ではないと私は思う。
それは、オウム真理教が事件を起こす前に行われた麻原との対談でも見て取れる。

「宗教だ、やばい連中だ!!ウガーーーっ!否、否、否っ!!!」のような安易な脳構造を、ビートたけしほどの人物がしているわけがない。
おそらく本作は宗教に対する揶揄ではなく、「信じる人間の浅はかさと心」「信じさせる人間の狡猾さと手口」を揶揄をしているのではないか。
そう考えると「アウトレイジ」も、ヤクザの女々しい裏切り合いを軸に起きたストーリーだし、リンクする点はたくさんあるように感じる。

キレキレの視点と冷徹なワードセンス

その中で突出しているのは、やはりビートたけし演じる司馬というキャラクターの俗物性と俯瞰的な視点、ツッコミのような言葉選びの数々だ。

冒頭の
「2週間の断食で神様になれるぐらいなら、山で遭難したやつみんな神様になっちゃうよ」
も素晴らしい名言だが、ハッとさせられると同時に爆笑してしまうワードが多い。
献金・お布施で高級中華食ったり姉ちゃんと遊ぶために、仏像に法外な価格設定を行った司馬に対して
「工場に作らせたものに色塗っただけで、何十万も取ってあんたに信仰心はあるのか?」
と、熱心な信者の駒村が問いただした。それに対して司馬が返した答えは、
「こんなものを500円とか1000円で売ってみろ?誰も買いやしねぇよ。高ければ高いだけ、ありがたがって買うんだからよ。」

これは笑えるシーンであると同時に、この世界の的を射てると思った。
物の価値というのは、本当にそのもの自体に価値があるかどうかではなくて、それを求める人がいて初めて価値になる。

いい物だから価値がある、だから欲しい。
高いから価値がある、だから欲しい。
この二つは似ているけど、根本的に違う。

以前、殿が別の著書で
「ちんぽこに木の筒付けてる部族にヴィトンのカバン持って行ったって、なんも交換してくれない」
って書いていた記憶がある。
もちろん、自分もヴィトンに興味はない。
けれど、ヴィトンを売れば金になるから欲しい、これは価値の対価交換だ。
ただ一切の価値が通用しない場所では、それは本当になんの意味もなさない。

価値と信仰は切っても切り離せない関係だ。
神社仏閣や金ピカなのものも、金ピカにする意味がないものまで金ピカなのもきっと、金ピカにすることによって価値が上がる、価値があるかのように思えるからだ。
ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー」のソブリン人も、金ピカで我らはすごい!みたいな空気出してたしね。

金ピカ ソブリン

つまり安くてイイものよりも、高くて無駄なものに人はこぞって金を払う。特に価値として目に見えるようなものがない信仰というものは、高ければ高いほど意味があるように見える。
その構造は宗教とは関係なく、あなたのすぐそばでも日常茶飯事に行われている。これは、自分の好きなものに置き換えてみても通じる話。
世の中には、それ自体が対価として相応しいかどうか以上に価値があるとされているものが多いのだ、思っているよりもずっと。

そして、金額をこちらから提示しない場合は
あなたのお気持ちで」というめちゃくちゃ曖昧で怖い言葉で揺さぶるのだ。
宗教も冠婚葬祭も何もかも、相手に押し付けた「金額」をお任せしておいて、その額で勝手に人との関係性や気持ちを測るシステムは、本当にクソだと思う。
結局、みんなGoogleで調べてるんだから意味がない。

人の信仰心で美味い飯を食うことを覚えてしまったら、そりゃ止められないよね

少し古くて歪な作品であるが、これぞ北野武って感じの皮肉の効いた猛毒たっぷりの強烈なブラックジョーク作品。
北野映画は暴力があって苦手という方も、入門編としておすすめだし、選挙が近づくと学会員から公明党への投票連絡が来る方、家族が陰謀論とか終末論にどっぷり浸かって頭おかしくなってしまった方、大川隆法映画とセットでオススメします。

バチ?当たってみてぇよ。
地獄?落ちてみてぇよ、バカヤロウ。

教祖誕生
原作 ビートたけし著 「教祖誕生
監督 天間敏宏
出演 ビートたけし
   萩原聖人
   岸辺一徳
   玉置浩二

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