濡れ女
小説を書いてからの挿絵、ではなく、
描かれたイラストから発想した小説を書きました。
それが『絵de小説』
こんかいのイラスト提供は、
Astra.kさんのイラストです。
https://www.pixiv.net/users/59121332
濡れ女
「君が期待してるような話じゃないよ」
そう前置きしてから話をしてくれたのはNさんだ。
結婚する前だったので二十年近く昔。Nさんは一人暮らしをしていたそうだ。家賃と勤め先が近いというだけで選んだそのアパートは、裏に池があったと言う。
お金持ちの家で優雅に錦鯉などが泳ぐような池――ではなく、本当の池、野池とでもいうのだろうか? ――があり、二階の部屋の窓から見える風景は池だった。
そのアパートで暮らしはじめて知り合ったのが、隣に越してきた大学生のHさんだった。Hさんは社交性の高い人だったらしく、引っ越しの挨拶に来てくれた時に話し込み、すぐに仲良くなった。年齢が近いのも親しくなった理由の一つだ。
ある日の夜、Hさんがビール片手にNさんの部屋にきた。
「今日は変な女に会ってさぁ」
腰を下ろすなりHさんは話し始めた。
Hさんがそのアパートに住むことに決めた理由はNさんとは違う。Hさんの理由は池だった。
Hさんは釣り好きだったのだ。
Hさんはヒマさえあれば、アパート裏の池で釣りをしていたし、休みになれば海に、夜釣りにと出かけていた。Nさんも誘われ、竿を借りて池で付き合い釣りもした――Nさんにとっては残念ながら、それほどハマるモノでもなかった。
その日、Hさんは糸を垂らしていると、強い引きがきて一気に釣り上げた、鯉だった。Hさんいわく、基本はブラックバスだがときおり鯉も釣れたそうである。
そのとき、ふいに話しかけられた。驚いて振りかえると、髪の長い女性が立っていた。
夕刻でまだ陽は沈みきってはいないが、昼間ほどの明るさもない。逢魔が時というヤツか、絶妙なその薄暗さが妙に女性を不気味に感じさせた。
なにより、和服というのはいちばん異様だった。
それによく見ると髪が濡れている。
女性は、そのサカナ私にあげてくれませんか、と言った。
一瞬迷った。それは、独特な言い回しに一瞬理解が追いつかなかったせいだ。
どのみち池に返すだけだしと思いあげることにした。
断るより、あげたほうが早く立ち去ってくれそうな気もした。
その女性は、あまり関わりたくはないモノを感じさせていた。
生返事を返しながら針を外し、投げ捨てるのも悪いと思い、尾っぽをつかんで女性に差し出した。
女性は受け取ると、まるで赤子を抱くように、両腕でしっかりとかかえ、礼のひと言もなくゆらゆら歩き去った。
「いまから思えばその日からだよ、あの人がおかしくなったのは」
はじめに気づいたのは数日してからだったという。
帰宅し、小さなベランダに洗濯物を干していたときだった。ふと、隣を見ると隣のHさんの部屋を見ると、窓が何かおかしい。頭に?を浮かべながらよく見てみると、中から窓全体に新聞紙が貼りつけてあったのだ。
カーテンをひかないほうが明るくて寝過ぎない、と以前Hさんが言っていたのは憶えている。寝坊、遅刻が多いのでその対策らしい。そのHさんがカーテンを引いていいてもおかしいのに、なぜ新聞紙なのか頭をかしげるしかなかった。
そして、あの日以来、顔を見ていないことに気がついた。
Nさんは朝の出勤時間が早いので、朝から顔を合わせることはない。それでも帰宅時に、釣りをしているHさんを見ることはあるのはいつもだった。
もしや風邪かなにかで寝込んでいるのかと、隣の部屋を訪ねてドアをノックしてみたが返事はなかった。部屋の灯りはついていたのでいるのは確かだ。
本当に寝込んでいるのかと心配になった、と同時にそれならそれでしつこくしてもわずらわしいだけなので、おとなしく自部屋に引っ込んだ。
その日以来、なんとなくHさん部屋を気にかけていた。姿を見ることはなかった。何日たってからだったか、心配すぎるので、かなりしつこくドアをノックしてみた。
やっとドアを開けたHさんを見て、ぎょっとした。痩せて顔色が悪かった。
あいさつもそこそこに、無理矢理部屋に上がり込む。
病気なのかと聞くとそうではないと言う。
女に振られでもしたかと聞くとそうではないと言う。
ではなんなのかと聞くと答えてくれない。
Hさんらしくなく、言葉数がすくない。
なぜかベランダの方を横目でうかがっているように見える。
どうも様子が落ち着かない。
時間を掛けて聞き出すのには苦労した。
女が訪ねてくるのだと言う。
ちょうど女の話を聞いたあの日、酔って部屋に帰り、そのまま気絶するように眠りについた。
朝方、尿意に目が覚めたときだった。
窓の外、池に何か見えた。
はじめは何かわからなかった。
ぼんやり覚めない頭でじぃっと眺める。
一気に目が覚めた。
あの女だった。
池の中央、水面に女が立っていた。
女は水面をゆっくりと水面を移動し、向こう岸へ消えた。
夢か、酔いが見せた幻か、その答えはすぐに出た。
モンモンとした一日を過ごし、嫌な思いしかないので、その日は釣りもせず、早々に眠りについた。
コンコン。
コンコンコン。
音がした。
コンコン。
コンコンコン。
窓を、ノックする音。
うなされるように、寝返りをうつ。
コンコン。
コンコンコン。
うるさい! っとぼんやりした頭でHさんは怒鳴った。
ドン!
一気に目が覚めた。
突然、窓を乱暴に叩かれた。
驚きで半身を起こし、ベランダの方をみた。
それでさらに驚いた。
ベランダに人がいたのだ。
そう、あの女だった。
和服に濡れた髪。
Hさんを見下ろすように、ベランダに立っている。
目が合う。
その目は、黄色く光っていた。
そして女は何も言わず、窓をノックする。
Hさんは布団をかぶってただ恐怖に震えた。
それ以来、女は毎晩やってきた。
窓の新聞紙はそれが理由で、部屋の電気は消せなくなった。
友達か、実家にでも逃げればいいじゃないか。なにより警察に相談すべき事案じゃないか――Nさんはそう思って言ってみた。
「警察ぅ? そんな所に相談したってムダだろ、人じゃないんだから。あんたもひとめ見たらわかるはずさ」
Nさんに言われるまでもなかったそうだ。
次の日には、事情は隠して友人家に泊まりに行ったそうだ。
とりあえず、今夜は安心だ。何日か泊めてくれたとして、どうしよう? 引っ越すしかないか。などと悩みながら眠りについた――その友人家にも女はやってきたと言う。
逃げても来るなら、あとは野宿しかない。
それも解決策にはならないだろう。部屋に入れてしまえば、どうなるかわからない、野宿などできるはずもない。
Nさんが記憶する限り、夜にノックの音は聞いていない。
池で誰かが亡くなった、という話も聞いたことはない。
Hさんの言っていることを疑っているわけではない。
Hさんは心霊だのなんだというモノには半信半疑だった。
何かの精神疾患なのかも、という思いもよぎった。
それらの考えが顔に出てしまったのか、急に怒りだしたHさんに部屋を追い出されしまった。
「信じてくれないのならもういい! だから話したくなかったんだ!」
心配は確かにしていたけれど、興味本位で事情を聞こうとしたことも確かだった。
ただ彼には悪いことをしたという罪悪感だけが未だに残っている。
その後、動きがあったのはさらに数日後だった。
常に隣の部屋は気にしていた。いるのかいないのか、沈黙を続けたHさんだった。
その日、帰宅したとき、部屋に入ろうとすると、隣の部屋のドアが突然開いた。
驚いて見ていると、Hさんが出てきた。
もっと驚いたのは痩せてはいるものの、顔色はよく、挨拶してきて先日怒鳴ったことを謝ってきたことだ。
元のHさんにすっかり戻っていたのだ。釣りに行くようで釣り道具を持っていた。
家族に相談したのがよかったのだと言う。
母親が、なんでも高名な霊能者の神主を見つけてきたのだと言う。
お祓いをしてもらい、お札をもらってきたのだと言う。
自慢するようにポッケからだしたお札をピラピラさせる。
もう、何も心配することはない、っと高笑いしていた。
そんなことだけで元気になれるのなら、それでいいとNさんは安堵した。
また今度飲もう、っと別れた。
「うぎゃぁぁぁぁぁ!」
悲鳴は隣から聞こえた。
長い、長い悲鳴。
夜もすっかり更けていたころだった。
Hさんの悲鳴で目が覚めた。
時間は二時、三時頃だった。
部屋外に飛び出る。
悲鳴は続いている。
風呂場からだった。
ドアの隣の窓、その中から悲鳴とばしゃばしゃ暴れ回る音が聞こえる。
Hさんの名を呼ぶも、悲鳴は止まらない。
風呂場の窓も、ドアも鍵が閉まっている。
その内、ボリュームのつまみを絞るように悲鳴が小さくなっていき、静寂が訪れた。
他の部屋の住人も様子を見に出てきていた。
何事かと聞かれてもNさんも答えようがない。
その後はバタバタした。
誰かが呼んだ警察が来て。
誰かが呼んだ大家が来て。
誰かが呼んだ家族も来た。
Hさんは消えていた。
どこにもいなかったのだ。
ドアも、窓も、ベランダの窓を含め、出入りできるすべてに鍵が掛かっていたのにも関わらず、Nさんの姿はどこにもなかった。
私はNさんに、欲しがっていた話だ、と言った。
しかしNさんはそれを否定する。
「いや、Hさんに取り憑いた女はね、きっと幽霊なんかじゃなくって他の何かなんだよ。あの時オレは見たんだ。次の日だったかな、ベランダからHさんの部屋を見たら、貼ってあったお札がね、燃やされたようになってて半分焼け落ちてたんだ。アレは、きっと人間の力じゃどうこうできない類いの何かだったんだよ」
Hさんの消息を今も誰も知らない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?