自分の経験を書こうとするとどこかで生じてしまう被害者的感覚
に、戸惑っている。
悲壮感満載の経験を書いたとしても、それがにじみすぎないぐらいが読んでてちょうどいいのかな、と。
昨日、こんな記事を書いた。
結局逆上を恐れて口を紡いでいたただの意気地なしの子供じゃないか、と。
試練の連続で辛いことばかりのように書いてしまったけれども、書いていないところで友達はえいちゃん以外にいないわけではなかった。
園での生活は辛かったけれども、母が他の子のお母さんと仲良くしていたのでプライベートではえいちゃん以外の子と遊んだ。
ちなみに母はびいちゃんのお母さんと仲が良く、親子でカラオケによく行った。びいちゃんのお母さんはえいちゃんとびいちゃんの口論のことを
「ふたりでゆぶねちゃんの取り合いしてたんだってー?」なんて笑っていたぐらいだから。
エピソードを語るのって、さじ加減がむずかしい。
エピソードと言えども、全てがノンフィクションなわけじゃない。
出来事のほんの一部を切り取って綴っているだけ。
苦痛と綴ったあと全く笑っていない日々が続いているわけではない。書いていないだけで家族と会話して笑っていることもある。
世間に出回っているノンフィクションの作品はどうなのだろうか。
感情をたっぷり込めたって受け取り方は様々。
読み手がどう思うかを気にしていたら、なんにも書けなくなる。
それぞれの感想があっていいのだ。これからもっと文を書いていったらいろいろなことを言われたり書かれたりするのだろうけれど。
noteは作品。
もしこの先何か言われたとしたら
「すべてがノンフィクションではありません。心の中で脚色を加えています」
で通そうかな。
なんてクリエイターらしいことを言ってみる。
なるべくなら人間らしく生きた文を書きたいから、どんな仕上がりになっても感情の鮮度を大事にしよう。
そもそもは、自分を見つめなおすために自分のことを書き始めたのだから。
こんな人間もいるんだ、ぐらいに感じてもらえればちょうどいい。
あ、感想は読み手に委ねるんだった。
私が指定するようなことではなかったね。
書いているとエネルギーを使うのか、甘いものか揚げ物が欲しくなるんです。 健康を害さない程度につまみたいと思います。