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ねずみが走ってカラカラ回すアレ

2008年。31歳。ふりだしに戻る。
これから向こう数年、貧困にあえぐ。


結婚した。
彼女はゴリッゴリの縫製職人。
そして、とびっきりのコミュ障だ。

敗北の無念と、ままならない現状と。
そんな話をしたくなくて、
とにかく人に会いたくなくて。

コミュ障ふたりで、隠れるみたいに、
高尾山のふもとに住んだ。
誰とも連絡を取らなくなった。

駅前、4LDK、80平米、95,000円。
リビングに工業用ミシンを数台置いた、
自宅のアトリエで縫製の仕事を請けた。

工場と、アトリエの仕事。
それだけで生きていければ良いのだが。


縫製の仕事は、みじめだった。

シャツ、@600円、10枚。
カットソーワンピ、@1,300円、14枚。
日傘、@3,000円、5本。

いずれも1日では終わらない。

ダンボールいっぱいに
使用済みの水着が入っていて、
それをすべてハイレグに直す、
という謎の仕事、@100円、500枚。

どういう経緯で入ってきて、
どこで使われるのかまったく分からない。
1週間かかっても終わらない。


彼女が結婚前に勤めていた、
衣装会社の仕事を貰えた。
この仕事は、とてもありがたかった。

ほかの仕事は、ひどかった。
日給5,000円は、なかなか取れない。


これだけではとても、生活できない。
やむを得ず、アルバイトを始めた。

いつかアトリエの仕事だけで、
暮らしていけることを夢見て。

印刷会社、コールセンター、
ティッシュ配り、新聞配達…
食べるために、いろいろ勤めた。

履歴書の職歴欄には書ききれないのに、
職務経歴書には書けることがない。

新聞配達は、勤め始めて3日目に
カブでこけて辞めた。


勤めながら、いろいろトライした。


銘仙のアンティーク着物を買ってきて、
スカートにリメイクして、
ハンドメイドサイトで販売してみた。

いくつかつくったが、1着も売れなかった。

まったく売れないので、
だいぶハデな柄のせいかと思い、
鍋で製品染めしてみた。

それでもぜんぜん売れなかった。

新聞配達でコケたのは、
その日の深夜だった。どちらも撤退した。


バレエのレオタードを内製して販売する
ECを立ち上げた。

EC、というかインターネット自体に、
あまり興味がなかったが、
Photoshopの技術を活かして、
調べながら立ち上げてみた。

リスティング広告を出稿してみた。
2着だけ売れた。
CPAが合わなすぎて撤退した。

少しだけCSSを書けるようになった。


とにかく、お金がなかった。

自宅アトリエの仕事は、儲からない。
月数万円の副業みたいなものだ。

工場はギリギリ赤字が出るか出ないか。
赤字が出たら、安い給料から補填した。

勤め先には必ず、
弁当と水筒を持って行った。

給料を少しでも上げるために、
夜勤の仕事を選んだ。

月に一度くらい、
バーミヤンで外食するのが、
精一杯の贅沢だった。

いよいよ家賃が払えなくなって、
市役所に泣きついたら、
家賃3ヶ月分を市役所が払ってくれた。
八王子はあったかい街だ。


食えない。
縫製は、食えない。


食うや食わずの生活。
元嫁には、苦労をかけた。

そこから抜け出そうと、
手数だけは、出し続けた。

試しては、うまくいかず、ふりだしに戻る。

いくら走って回しても、
一歩も進まない、ねずみ車。

およそ5年におよぶ、カラ回りの徒労。

同じような景色が、無限に続く樹海。
出口が見えず、方角も知らされず、
ただひたすら歩くような年月。

ブランドをコケさせてからというもの、
前に進んだつもりなのに、
いつの間にか同じところに戻らされて、
決してたどり着けない、行進の日々。

選択を信じられなくなって、
疑って、振り払って、
また歩いて、間違える毎日を過ごした。

8月の新宿。したたり落ちる汗。
コンタクトレンズ屋のティッシュを、
誰にも受け取ってもらえなくても、
耐えて、耐えて、耐えた。

工場を潰そうと思ったことは、
一度や二度ではない。
でもそれはしなかった。

こんな有り様に希望がほしかった。
チャンスの受け皿は
少しでも残しておきたかった。


そして、ついに
待ちに待ったその時が訪れた。


あるダンス競技の
衣装をつくることになった。

競技の輸入衣装を販売するECの運営者から、
衣装の製作を依頼されるようになった。

工場への問い合わせから始まって、
ご縁につながったのだ。

単価も高く、生産量も増え、
1年ほどで継続的な仕事になった。

これまでの仕事は、
ほんのささやかな、おつまみくらいで、
おかずにすらならない。
腹がふくれない。

ダンス衣装の仕事は、ごはんだった。

主食。
満腹感が違う。
事業と生活に、安定感が生まれた。

会社勤めに対する、依存度が下がった。

元嫁もひとりの作業に耐えられず、
ついにわたしは勤めを辞め、
自宅アトリエで衣装をつくることに
専念することにした。


やっとまた、独立できた。
カラ回りの日々から、ついに解放されて、
ようやくたどり着いた。

そして、たどり着いた場所からは、
さらに道が続いていた。

迷うことのない、光り輝く一本の道筋。

工場を維持しておいたおかげで、
わたしたちは、信じられないような
チャンスに恵まれることになるのである。


(つづく)

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