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デザイナーの仕事は、選択する恐怖と戦うこと。

最近、弊社で麻雀が流行っている。

仕事終わりの帰り際に、もちろんノーレートで。初心者も経験者も混じって、ブレストしながら、軽く打つ。

会議テーブルに載せるほど煮込みきれていない事案。
思考するにあたり、その切り口から探しに行かなければならないような時は、卓上に載せるに限る。

時に別の観点を、時にドラの受け入れを探しながら、ダラダラくっちゃべっているうちに、気がつくと思考の対象がぼんやりと、しかし立体的に浮かび上がって、おぼろげながらもその輪郭が見えてくるようなことがある。

探しに行く。
ある意味で麻雀にはそういう性質があり、手役を探しに行く道すがら、別の思考の探しものが偶然見つかる、探しものとは往々にして、そういうものだ。

そういう感じで若き天才たちと、カルチャーとか、SNSとか、ファッションとか、そういうものの未来を探しながら麻雀を打つのは、格別な時間なのである。

麻雀について書きたいわけではないのでルールの詳細は省くが、麻雀は4人でやるゲームだ。

自分が安易な牌を切って誰かに打ち込むと、点差ができてしまって、「場」に迷惑をかけることになる。もはや逆転が難しくなってしまうほど大きな打ち込みや、トップをさらに楽にしてしまうような打ち込みをしまうと、ゲームを乱して、場を壊してしまう。

だから、安易な牌は選べない。

手牌に惚れて好き勝手な牌を切って、誰かをアガらせてしまうことは、あまりに安易で、自分本位だ。

1牌の後先。
繰り返される正着と失策。

選択を迫られる卓上にあって、迷いは重く、いよいよ暗く。深く底に引きずり込まれるような無音の恐怖と、しかしそこに何か、この世の真理にひもづく力の流れのようなものに、わずかに触れたような手ざわりと、いずれにせよその表裏にせめぎ合い、乱されて、揺さぶられる。

誰かが選択を誤って、大きなトップ目ができてしまった時、上級者同士の対局であれば、トップ目以外の3人が暗黙の内に協力することもある。なるべく点差を平らにして、簡単にトップを取らせないように、各々が役割を果たす。

そうやって各家が切るべき牌を切り、止めるべき牌を止め、アガるべき手をアガる。それぞれが「場」に真摯に向き合って打牌を選び、状況に応じた自分の責任を果たす。

このように麻雀とは、人と、人がいる「場」に向き合った選択の姿勢が問われる競技だと思っている。

その牌を、どれだけ自重できるのか。

それとも目をつぶって、自分勝手に牌をブンブン切り出すのか。

配られる牌は運に任せるよりほかになく、打つ人と「場」によって麻雀は、運任せの「絵あわせ」にもなれば、自分を律する精神性を問われる競技にもなり得る。

この場況で、自分が果たすべき責任は何か?
なるべく人に迷惑をかけない打牌はどれだ?

正しい姿勢で「場」に向き合って、やるべきことをやり続けた結果、トップとは時折「場」から与えてもらえる。そういうものだと思う。

たかがゲーム。
されど個人的に麻雀とは、そういう選択の「あり方」を問われ続ける競技だと、わたしは勝手に思っている。


ところで本稿は、麻雀について論じたいのではない。最善を尽くそうと努めた結果、前置きが長くなってしまっただけだ。

teshioniにおいて、あるいはmaison407においても、1着の服がお客様の元に届くまでには、多くの人の手を経由する。

・デザイナー
・パタンナー
・ブランドマネージャー
・アトリエチーム
・生産管理
・オペレーションチーム
・生地屋さん
・付属屋さん
・縫製職人さん
・ボタンホール屋さん
・プレス職人さん
・倉庫事業者さん
・配送業者さん  …

実際の生産工程はもっと複雑であり、関わる総人数で言うなら、もっとずっと多いのだが、パッと列挙するだけでも、これだけの人の手を経てようやく、商品はお客様のお手元に届く。

1着の服は、これだけの人たちの仕事の成果だ。

関わる人全員が、仕事の責任を誠実に果たしてくれるから、そのデザインは商流に乗る。

当たり前のようで、決して簡単なことではないと思う。


1着の服がたどるプロセスは、もちろんデザイナーの企画から始まる。

1着の服がたどるプロセス。

もしかしたらお客様にも読んでいただけるのかも知れない文章で、こんな素敵でない言い回しを選ぶのは、いささかロマンに欠けるのかも知れない。

たとえばそれを、まるで1枚の生地が巡る旅路のような、夢のある言語表現で描くこともできようか。

デザイナーのアイデアがさまざまな工程を経て形になって、やがてキレイに梱包されてお手もとに届く様子は、外から眺めている限りでは、まるで素敵な物語に彩られた布の旅路のようにも見えなくもない。

しかし現場はとても、そんな美談に収まらない。
もっと生々しく、糸にまみれて、時間に追い詰められている。

生地と付属の相性が悪ければ補強のための副資材を考え、途中加工が嵌まらなければ段取りを組み直し、万が一にも針の本数が合わなければ、全員がすべての作業を止めて、鬼の形相を地べたに張り付けて、見つかるまで探す。針の本数が合わないなど、絶対に許してはならない。

どれだけフローを定量的に合理化しても、品番単位でいたちごっこみたいに非合理が発生するのが物理の現場だ。日々発生する物理的非合理性の定性的工夫を繰り返して、現場を回す。回さなければ食いっぱぐれる。
そして、規模が大きくなればなるほど、ひとつの現場が回し切らなければならない責任の質量も大きくなる。

現場とは、そういうものだ。

だからそんな情緒ある言語表現はピンとこない。
「1着の服がたどるプロセス」という硬い質感がしっくりくる。

そしてそういう硬質の現場は、プロセスの上流からは、能動的に意識し続けないと、簡単に視界に入らなくなってしまうものだったりする。

そうやっていつのまにか、物語的なキレイ事になる。

デザインという仕事が、まるでとってもキレイで素敵でクリエイティブな仕事であるかのように。デザイナーに憧れる人たちにはそういう風に映っているのか。

デザインの仕事は、川で例えるなら上流にあたる。そしてそれ自体に意味はなく、単純にデザインという工程が、流通フロー全体の前工程に位置するというだけだ。

むしろ上流にいる者には、川下に仕事を流す責任がある。川上に陣取っているにも関わらず、川下に一定の仕事量すら流せない者は、そのわずかな仕事を川下から断られても仕方がない。

上流にいる者がその流し先を選べるように、下流にいる者にもまた、どの支流に着くかを選ぶ権利があるのだ。生産量を積めないブランドの製品を縫ってもらうのは、頼み込むのに、実に骨が折れる。

ブランドAの商品は縫いたいけど、ブランドBの商品は割りに合わないから縫いたくない。そんなことは当たり前のように言われる。当然だ。彼らは彼らで、硬質の現場を回しているのだ。


だからデザイナーの仕事は、売ることだ。
つくりたい服の絵を描くことじゃない。

売れていないブランドは、お客様から選ばれていないのだ。買って下さるお客様に向き合わず、思うように好き勝手な絵を描いて、生産して世に出してみるとぜんぜん売れない、そんなデザイナーにはとてもじゃないが、生産者はついていけない。運任せの「お絵かき」に、現場はとても付き合えない。

とはいえ、ひとつのプロダクトが売れるかどうか、最終的には売ってみないと分からない。

タイミングもあるだろう。
たまたま近いタイミングで販売された他のブランドの商品と比べられて、負けることもある。逆にもちろんそれに引き上げられるようなこともある。

そのプロダクトが売れたか売れなかったかの結果だけを見るなら、運任せのギャンブルのようにも見えなくもない。

しかしそのできごとの前後を想像しているかどうか、それがデザイナーの成否を分けているように思える。

そのプロダクトを販売する時までに、売れる文脈をつくれていたか。
販売の結果から場況を読んで、次の手を打てているか。


ブランドからプロダクトが生まれるプロセスについては、すでに書いた通りだ。

なぜこのブランドが社会に必要なのか?
なぜこのプロダクトをつくるのか?
なぜこの形状が良いのか?
なぜこのブランドのお客様はこの形状を選ぶのか?
このブランドのお客様はどういう生活をしているのか?

人の心と身体と生活を豊かにする設計。
生活がこれほどまでに幸せになる、私のためのブランド。そう思ってもらえる社会的意義と、意義が正しく伝わるための接点をつくり、認知が広がる文脈を設計し、やがて購買に至るまでの導線を実装する。

デザインは「お絵かき」ではなく「設計」である。

端的に言うなら、すべてのプロダクトはブランド全体の設計の、いくつもの施策のうちのひとつとして生成されなければならない。逆に言うなら、プロダクトはこれまでに設計されてきた文脈の、出口として選ばれる仮説のひとつにすぎない。

仮説は販売の結果をもって検証される。とても単純に、売れたのであれば、選んだその仮説は正しく、売れなかったのであればタイミングも含め、なにかが間違っている。

しかし、仮にそのプロダクトが売れなかったとしても、間違っていたのは、多くの選択肢の中から選んだ仮説のひとつに過ぎない。ブランドのすべての存在意義が否定されたわけでも、選択し得る仮説すべての偽が証明されたわけでもない。

デザイナーがそのブランドを、この社会に必要だと考えているのであれば、仮説検証は永遠に続く。
そのプロダクトを求める人が少ないことが分かった後でも、次の仮説を導き出さねばならない。事業である以上、プロダクトは世に出し続けなければならない。

移り変わる社会の価値観に向き合い、それに沿う文脈の最適化と、認知の最大化に向けた施策のアップデートを繰り返す。

社会に向き合って、ブランドの再設計を繰り返して、求められるブランドであり続けるために、新たな施策を打ち続けて、新たなお客様を探し続ける。

そしてまた、新しいプロダクトを世に送り出し、販売の結果に向き合い、背負う。それを永久に繰り返す。

残念ながらプロダクトが売れないこともある。施策が外れることもある。仮説が間違っていることもあれば、タイミングが悪かっただけのこともある。

何をやってもうまくいかないように思えることもあるだろう。いま何を投稿しても受け入れてもらえない。何を出しても売れる気がしない。そんな時にも手を打たされるのは、怖い。背筋は凍り、肩に余計な力みが入り、指先は冷え切って、手が縮んでしまう。

そしてもっとも恐ろしいことに、デザイナーはその1手を、人につくらせなければならない。

デザイナーは、現場の王だ。
川の最上流に陣取り、その一声で現場を動かすことを宿命づけられている。

自分の一声が、現場を動かす。
自分の設計が、人の食い扶持になっている。

規模が多少大きくなると、自分のブランドを川下で支える人数と、それで生計を立てる人の顔が見えてきて、意識するに至る。そしてうまくいっていない時に、うまくいくか分からない仮説を、その人たちにやらせることを強いられる。そしてまた、売れないかもしれない。その恐怖たるや想像を絶する。

それでも次の手は打ち続けなければならない。

どれだけうまくいかない時であっても、数ある選択肢の中から、打ち手を選ばなければならない。選んで、決めて、人にやらせて、その責任を取らなければならない。

責任を背負って社会に向き合い続けて、新たな施策を打ち続ける。残念ながらその1手が失策に終わったとしても、10手指せば正解にたどり着かせてもらえるかも知れない。文脈形成にせよ、プロダクトにせよ、小さく短く大量の仮説検証を必死に繰り返す。正着と失策を正しく積み重ねて、そうやって生き延びて、気がつくと社会に求められるブランドに育っている。

社会に求められるブランドをつくって、川下に仕事をつくり続ける。デザイナーとして川上に陣取った以上、川下に自分を選んでもらわなければならない。

そうやってデザイナーが選ぶ責任に向き合い続けるから、現場もデザイナーに選ばれるために、責任ある仕事をし続ける。


だから断言する。デザイナーの仕事は、つくりたい服の自分勝手な「お絵かき」ではない。

デザイナーの仕事は、売ることだ。
売るために、選ぶこと。
選んだ施策を人にやらせて、その責任を取ること。

そして、その恐怖と戦い続けることだ。

選ぶ。
その恐怖に背中が痺れそうになっても、選んで決める。選んだ答えを正解にもっていく。責任を背負うその姿勢に、現場はついていく。
選択の責任を背負って矢面に立っているから、デザイナーは王なのだ。

少なくともteshioniでいま売れているのは、そういうデザイナーのブランドだ。そんな奴らと仕事ができていること、そのプロダクトを世に送り出せる現場をつくれていることを、誇らしく思う。

矢面に立つ恐怖をやわらげることはできない。
しかし願わくば選んだ答えを、われわれの知見と技術で少しでも正解に近づけられたらと思う。


maison407のブランドの販売が始まる。
過酷なSTEP制度に挑むデザイナーたち。彼らとも同じように、ともに仕事をできることを現場が誇らしく思えるデザイナーであることを心から願う。

そしてこれから挑むその壁は、そうあれたかどうかの答え合わせであることに触れておきたい。文化の牽引者であることと、現場の王であることは同義だ。

お客様も現場も、デザイナーが選んだ目的地について行くのだ。

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