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オラファー・エリアソン「ときに川は橋となる」展における鑑賞者のまなざしについて

現在、東京都現代美術館で開催中のオラファー・エリアソン「ときに川は橋となる」展に先日行って来ました。簡単な開催概要については以下を参考にしてみてください。

開催概要
会期:2020年 6月9日(火)-9月27日(日)

休館日:月曜日(8月10日、9月21日は開館)、8月11日、9月23日

開館時間:10:00-18:00(展示室入場は閉館の30分前まで)

観覧料:一般 1,400 円/ 大学生・専門学校生・65 歳以上 1,000円/ 中高生 500円/ 小学生以下無料

※2020年9月13日現在、オンラインでのチケット事前予約制ではない
ただし土日祝など混雑時は入場制限がかかることがある

ちなみに私は9月の平日昼間、13時ごろに美術館に着いたのですが、チケット売り場でやや(5分しないくらい)並びました。入場制限はかかっていなかったです。

展覧会のメインビジュアルにも選ばれている《ビューティー》という作品(ヘッダー画像)に惹かれ、作家のことは知らなかったけれど絶対に観たい!と思っていた展示でした。
しかし意気揚々と乗り込んだものの、展示会場へ入った瞬間「帰りたい……」と頭が痛くなってしまって。

今回のnoteは私がオラファー・エリアソン展に対しネガティブな感情を抱いてしまった原因と美術館における鑑賞者の態度(≒美術館側によるSNSへの写真投稿推奨の流れ)について、個人の体験ベースでまとめてます。

Twitterで鑑賞当日にやりどころのないモヤモヤを乱暴に書き殴ったツイートを基に再度、自身と向き合うために書いています。本当は日本における美術館に対する交付金のこととか実際の美術館経営など数字や統計などを絡めて論じられたらベストなのだけど、そこまでする気力と熱量はないので、どうか賢い読者の皆様はお手柔らかにお願いします。

「帰りたい……」と私が頭を抱えたのは他者の鑑賞態度が原因?

展示室の入り口前(展示場は地下だったので実際はエスカレーターを下る前の入り口であるが)で、チケットを見せ係員さんに「今は混んでいますか?」と尋ねた。
もし混雑しているなら、他の展示から見て回ろうと考えたからだ。
係の人からは「少し混雑していますが、もう少し時間が経つともっと混むと思います」との答えだったので、ならばと思い、エスカレーターを下る。

降りていくと、展示タイトルの前でポーズを決める人たちと、それを後方で待ち、自分たちの撮影できる番を待つ人たちの姿が目に入る。
ほんの少し嫌な予感を抱きながら展示室に一歩踏み入れると、まずまずの混み具合だ。

そしてそこら中から聞こえてきた日本特有のスマホのシャッター音と、作品の前で作品に背を向け、カメラに笑顔を向ける無数の人々の姿。

村上春樹ばりの「やれやれ」という声が心から漏れる。

そもそもの話なのですが、美術館に限らず私は人混みが得意ではない。
そして美術鑑賞はなるべく人が少ない時にじっくり時間をかけたいタイプの人間である。

そんな鑑賞スタイルの私には、最初の時点でのこの人混みと展示室全体を支配するざわめきに耐えられなかった。

仕方がないのでザっと一周することを決める。作品の前で写真を熱心に撮ったり、撮影待ちをしている人たちが多いものはひとまずスルーしよう。
そういうことは今までの現代美術の展覧会でもゼロではなかったのだから。

ところがどっこい、行っても行ってもスマホを片手に液晶画面越しに写真を撮る人ばかりなのである。

「なぜ私が写真撮影する人々に遠慮して作品を間近で見ることを遠慮しなければいけないのだろう」
「なぜこの人たちは作品に背を向けポーズを撮ってすぐ次に進むのだろう」
「なぜ私は他者の鑑賞態度がこんなにも気になって、心乱されてしまうのだろう」

他人に八つ当たりをして苛立っていたらあっという間に展示室を一周してしまい、入り口の展示タイトルが飾られたところへ戻っていた。

正直に言うと、これ以上鑑賞する気が起きず、モヤモヤとした気持ちを抱えたまま帰りの上りエスカレーターに乗った。

私が周囲の雑音ばかりに気を取られてしまう未成熟な鑑賞者である可能性

オラファー・エリアソン展を楽しく鑑賞出来なかった原因を、その時はインスタ映えにしか関心がなく、実際のアートに向き合わない他者の鑑賞態度のせいにした私でした。

しかし落ち着いて考えてみれば、私自身の鑑賞態度にこそ原因があったのではないか。

まず美術館とは公共の空間です。むろん展示室に入るために入場料を払う必要があるため、公園などとは少し違いますが、公共の空間であるといって差し支えないでしょう。
そして私は、あの展示室にいた他の多くの鑑賞者と同じ一鑑賞者に過ぎないこと。貸切って観ている訳ではないので、同じ空間に他者がいることを責める権利などはないのです。
ましてや、主宰する美術館側が【私的利用に限り写真撮影可(フラッシュ撮影、動画撮影不可)】としている以上、あの場にいた人々は鑑賞ルールを犯している訳でもありません。
迷惑行為となるような大声を出したり、走り回ったりする人もいなかった。

本来なら、私は私のスペース(単に物理的なものではなく精神的なものも含め)を自分できちんと確保し、作品と対峙するべきでした。
けれども、実際はスマホカメラのシャッター音と、普段関わることがなく一方的に苦手意識を持ったイケている人間たちで溢れかえった空間にばかり気を取られていた。

その環境がたとえ私にとっては不協和音のような居心地の悪さであったとしても、作品に集中すべきだったし、周囲の人間がどんな鑑賞態度であるかにばかり目を向けるべきではなかった。

オラファー・エリアソン展を心から楽しみ、味わうことが出来なかった原因として、私が未成熟な鑑賞者である可能性は十分にあるといえる。

それにインスタレーション作品や体験型作品は鑑賞者がいて成り立つアートであることも理解しているつもりです。今回のオラファー・エリアソン「ときに川は橋となる」展はそういった点においても、時に作品に背を向けアートと一緒に写真を撮ること、写真に写ること、そしてそれらをインターネット上へあげることは、アートの鑑賞の仕方として間違っているとは言えないどころか、正しい姿であるとも考えらる。

私に必要だったのはそうしたデジタルネイティブ世代の鑑賞態度に文句を付けることじゃなく、彼ら彼女らの鑑賞スタイルを邪魔しすぎない程度に、私の鑑賞スタイルを遠慮することなく貫くことだったんじゃないだろうか。

インスタントな芸術鑑賞の態度はインスタ映えを求める若者のせいとは限らない

ここまで、写真を撮る人たち、インスタ映え、イケている人間などという言葉を使い、展覧会に訪れていた人たちをラベリングしたのだけど、彼ら彼女らはおそらく20歳前後の若者だったと思う。
平日の昼間にあれだけ多くの社会人が有給を取って、鑑賞にきているとは思えず、あくまで予想でしかないけれど大学生たちが半数以上を占めていたのではないか。
若者とまとめるようになったことに、既に自分が若くないことを痛感しているのだが、そんなことは置いておいて熱心に写真を撮っていた人たちを【インスタ映えを求める若者】とする。と同時に【インスタ映えを求める若者】と一括りにラベリングすることの危険性についてしっかりと認識した上で話を進めていきたい。

今の20歳前後って2000年生まれ。ノストラダムスの大予言後に生まれてきた世代。デジタルネイティブもデジタルネイティブだし、テクノロジーとアートが融合した時の芸術鑑賞の方法の一つとして、InstagramやTwitterなどのSNSに写真を投稿するのは呼吸をするのと同じくらい自然な事なのではなかろうか。

私はInstagramをやっていないので、自分の目でオラファー・エリアソン展の写真がどのくらいInstagramに投稿されているのか確認することは出来ないのですが、Twitter上にはそうしたインスタ映え鑑賞者と思しき若者を揶揄したり、私のように心乱されたりした人も少なからずいたようだった。

だけど、美術館側のマーケティング戦略として展覧会の写真をSNS上に投稿することを私たちに求めている面も否定できない。
オラファー・エリアソン展では積極的にSNSにアップしてくださいとの触れ込みはなかったが、森美術館で開催された塩田千春の「魂がふるえる」展では美術館側から鑑賞者に対し、積極的にアップロードすることを推奨していた。

日本でのアートに対する市場価値や、美術館経営についての具体的な数字を私は知らないので憶測でしかないが、美術館や美術展を運営企画開催するのには莫大な資金が必要だ。それらは慈善事業ではなく、資本主義社会におけるまさしく経営である。
私たちはアートにお金を落とし、芸術を支えていくことが求められている。
もちろん芸術を真剣に楽しみ、考え、感じ、体験することは重要だけれど、芸術を造り出す芸術家を支えるためにも、芸術に携わる人々の生活を支えるためにも、そしてこの国に、豊かな芸術鑑賞の環境を整え、その下地を肥沃なものにしていくためにも金銭的サポートが必要であるといえよう。

そのためには今まで芸術とは疎遠だった人たちやライトな層、これから芸術に深くのめり込んでいくポテンシャルを秘めた若者の層も取り込んでいく必要がある。

アートへの造詣の深い玄人の鑑賞者も、友達を連れ立ち、決めポーズを取り、写真撮影に専念する鑑賞者も、美術を提供する方からしてみれば、チケット売り上げは同じ1なのである。動員数だって芸術の知識が豊富な人も、インスタ映えを求める若者も、親に抱っこをせがむ幼児も、みんな同じ1である。

今まで芸術に触れたことがなかったり、楽しむための知識がなかったりすることでインスタントな鑑賞態度を取ってしまう人々を、彼ら彼女らより少しだけ芸術鑑賞に慣れている人間が非難するのはとてもナンセンスなのことではないだろうか。
それに芸術を提供する空間がインスタントな鑑賞態度を認めている以上、その鑑賞態度の一因をすべて本人たちに押しつけるのはいささか疑問である。

100年前とも10年前とも芸術を取り巻く環境も、鑑賞する人間のライフスタイルも異なるのだから。

2020年の現在、私たちは寛容でありながら、必要であれば惜しみなく手にしている知識を共有する、他者と共存することが芸術鑑賞の場でも求められているのだろう。

約10年前の私は現代美術をインスタントに消費していた

これもまた個人的な体験に基づくものから出発していく。
20歳前後と思しき若者を見つめて、思い起こしたのは自分の20歳前後の時の芸術鑑賞の態度である。
私が初めて現代アートを現代アートとして認識し、触れたのは19歳の冬だった。その時は写真撮影はたしか禁止だったように記憶している。仮に禁止でなかったとしても撮影はしなかったことははっきりと覚えている。

19歳の私は芸術を鑑賞するために必要な知識はゼロだった。
ピカソがゲルニカを描いたことは知っていたし、好きな画家を問われれば平山郁夫と答えられたが、それは歴史の授業の中で習った知識であり、感覚的に好きというものだった。
芸術作品の社会的文脈の中での位置づけや、美術史、作品技法のアレコレや描画方法が持つメッセージなどを知っているわけではなかった。

ましてや現代美術は、それまでの芸術をルーツにした巨大な礎の上に築かれている現在進行形のアートだということさえも分かっていなかった。

だから鑑賞し終えた時「正直よく分からん。でも◯◯の作品はなんとなく好きだったな」という感想だった。そして一緒に行った人も現代アートに特別詳しいわけではなかった。
私(たち)はいわゆるデートスポットとして美術館を、現代アートを消費していたのだ。

それはオラファー・エリアソン展で感じた若者の鑑賞態度を、9年前の19歳だった私も取っていたことに他ならない。
ポーズを決めスマホで写真を撮り、撮ったものを可愛い!きれい〜!と楽しんでいた人たちと同じだった。

なのに自分が9年という歳月を経て得られるようになった鑑賞態度、美術作品・現代アートを楽しむための素養を、2020年の19歳、20歳に当然のように求めることの愚かさ。
ましてやその鑑賞スタイルを強制しようとしていたことに気が付かされた。

当時の、芸術に関して右も左も分からなかった私を美術館からつまみ出さず、静かに見守ってくれた大人たちがいたから28歳の私は今でも楽しく芸術鑑賞することが出来ているのだ。

彼らの鑑賞態度を非難するだけに終わってしまうのはあまりに勿体ないことではないか、と過去の自分と向き合い猛省した。

現代アートとインスタ映えの親和性

ひと昔(10年程)前には日本の美術館では展示物の写真撮影はほとんど不可だったところが多いように記憶している。
今は現代アートに限らず、私の大好きなクリムトの作品がきていた「ウィーンモダン展」では《エミーリエ・フレーゲの肖像》は撮影可能だったし、昨年開催されていた塩田千春「魂がふるえる」展やクリスチャン・ボルタンスキー「LIfetime」展の《白いモニュメント、来世》の写真は嫌というほどSNS上で目にした。この間、行ったアーティゾン美術館での展示も私的利用に限り撮影は許されていた。

もちろん全ての展示作品が撮影可能な訳ではないけれど、私的利用に限り撮影OKな現代アート作品や美術展は多い。

美術館、特に現代アートにおける【私的利用に限り写真撮影可】の流れは、SNSでの拡散力が現代において良くも悪くも非常に大きな力を持っているからだと考えられる。しかもその影響力の大きさはSNS上だけに留まらず、現実の私たちの行動にも変容をもたらす。

SNSでのバズは現実の人間が実際に美術館へ足を運ぶことのキッカケに成り得るのである。それは美術展の集客力、ひいては収益に繋がるといってよいだろう。

今はサロンで宮廷画家をやっている時代ではない。
インターネットは国境も時間も越え、まさしくグローバルに才能を花開ける時代なのだ。
芸術家たちがみんな、その方向に向かっているとは言わないが、インターネットを活用するインターネットベースの芸術作品が、インターネットを介し注目を浴びることはもはや現実である。
そのことを現代アートと呼ばれるジャンルに属し、作品を創る人たちが意識しない訳はないはずだ。
2020年、現代アートはインターネット、とりわけSNSでのインスタ映えとの相性が良いといえる。

あらゆるアートは、社会や時代と全く関係なく存在することは不可能である。

また芸術作品自体の価値も多様化していると考えられる。

一つの大作、例えば、ミケランジェロの《最後の審判》は作品の場所を移すことはおろか、それが描かれたシスティーナ礼拝堂を動かすことも不可能だ。2020年になってどんなにテクノロジーが進化しても、本物を見ようとするならヴァチカン美術館に入らなければならないし、長いチケット列に耐えなければならない。
そこには一点物としての価値がある。

一方、今回のオラファー・エリアソン展では、例えば、《リトルサン》(2012)という携帯式のソーラーライトは

世界の送電網が整備されていない地域で暮らす人びとに、クリーンで手ごろな価格の明かりを提供するために生まれました。

と謳われるようにアートとデザインがオーバーラップする形の作品だ。

これは決して一点物としての価値がある芸術作品ではない。
最後の審判と比較するのは暴挙だったかもしれないが、リトルサンにおいてはどの地域のどんな人々にも手に入る普遍性、そしてオラファー・エリアソンのアートの根底にあるクリーンでサステナビリティが最も価値のあることなのである。
ジンバブエの子供も、ニューヨークの子供も、東京の子供も、同じものを手にすることが出来る。
それぞれが同じものを持ち、環境やエネルギー問題に意識を向ける。その一連の流れまでがオラファー・エリアソンが提示する現代アートである。

現代アートは作品自体の唯一性もさることながら、それが広く行き渡ることを目的とした社会的メディアとしての性格を持っているといえるのではないだろうか。
広く行き渡ることは何も現物でなくても構わないのである。作品をおさめた写真がSNS上に広く流布することは、社会的メディアとしての側面を持つ現代アートにとって当然のことではないだろうか。

現代アートとインスタ映えは間違いなく、親和性が高いのである。

現代アートにおける鑑賞者のまなざしはどうあるべきか

例えば、作家の作品あるいは展覧会に込めたメッセージが、現代社会におけるアート作品のインターネット上での大量消費(例えば、個人で撮ったものをインターネットの広い海で不特定多数とイージーに無批判に消費すること)であれば、鑑賞者の我々が無邪気に写真を撮り、楽しかった思い出のせ!コピーとしての作品を世界に流通させる態度はある意味で正しい気がする。

けれども必ずしも撮影可であるアートの全てが上記のようなメッセージを含んでいるとは思えない。

となれば、私たち鑑賞者のまなざし、鑑賞態度はこのままで良いのだろうかという疑問が生じる。

小見出しでは「どうあるべきか」とあたかも正解があるような書き方をしたが、私がこれから書くものに正解はない。
ここではオラファー・エリアソン展で【インスタ映えを求める若者】に対し、ネガティブな感情を抱いてしまった私のような鑑賞者と一緒に考えていきたいことを綴ります。

芸術作品は先に述べたように社会や時代と関係なく存在することは出来ないし、まして芸術作品を鑑賞する私たち人間が社会や時代から逃れて生きることは不可能だ。

静かに黙って見ることを求められる作品も、見ず知らずの人とコミュニケーションを取りながら作り上げる作品も、カメラで撮影しSNSに挙げて楽しむ作品も。時と場所が変われば、芸術作品を提供する主体が変われば、何より生み出したその人が鑑賞方法を指定すれば、あらゆる鑑賞態度と方法は正解となり、また不正解となることがある。
そうした常に変化する世界の中では、アートの鑑賞態度や鑑賞方法についても自ずと変化していくものであると私は考える。

一方で、アートと向き合う時の鑑賞者のまなざしはどうだろうか。
古代から洞窟に絵を描き、土や鉱物で物を作ったり、美しいものを形に残そうとしてきた人間の営みは、使う道具や材料が変われど、その精神は不変といえるのではないか。

アートを楽しむ時の方法は人によって異なって構わない。
しかしアートと向き合うという行為は常に誠実で真剣であることが求められているのだと考える。
楽しみ方も、見方も分からなくても、丁寧にまなざすこと。
それが私たち鑑賞者に必要な最小限の、一番重要なポイントだと思うのだ。

それは作品が現代アートだろうと、中世のアートだろうと変わらない。


現代アートをインスタ映え的に消費するように見えた若い鑑賞者に私は苛立ってしまった。
それは彼らのまなざしを不誠実に感じてしまったからだろう。
けれど誠実かどうか、真剣であるかなんて他人の私には分かり得ない。
勝手に偏見で判断したにすぎない。

ならば私が、たった一人でも真っ直ぐに作品と向き合うこと、まなざしの仕方を愚直に続け、発信していくことだ。
無知で決して誠実とはいえなかった9年前の私が、今はアートを鑑賞する時に頼れる少しの知識を持つことが出来たのだから。

オラファー・エリアソン展でがっくり来た人と楽しかった人、そして全ての人へ

インスタ映えをうたう商業主義的な現代アートの展示の仕方、消費のされ方、鑑賞者に少しでも疑問を感じたり、苛立ちを覚えた人はどうかこれからも芸術作品を鑑賞すること、そして消費すること、アートにお金を使うことを一緒に考えていきませんか?

そしてオラファー・エリアソン展に行って、なんだかよく分からなかったけれど綺麗だったな、楽しかったな、また行きたいなと現代アートやアートに興味を抱いた、スポンジのように知識や興味をぐんぐん吸収できる若者のみなさんへ。

スマホをいったん鞄へ入れて、目の前で揺れ動く作品をじっと観察してみませんか?
なんとなく好きだと感じる作品を近付いて見たり、遠目から見たり、気になれば近くのスタッフや学芸員さんに質問してみませんか?

あなたが写真を撮るのに夢中な間、ひとり静かに作品と対峙している人がいることも頭の片隅にいれておいてもらえると嬉しいです。

子連れで楽しく鑑賞した方へ。
美術館で子供がはしゃいだり、大声を出しても、必要以上に叱ったり、周りに気を遣いすぎないでください。
展覧会によってはサポートが十分とはいえないものもあるでしょうが、子供大歓迎!な展覧会にはこれからもどんどん足を運んでください。

未来を生きる人たちがアートに触れて育つこと、それを嬉しく思える大人でありたいと思っています。そして純粋にアートを楽しむ姿、そのまなざしから学ばせてもらっています。


サポート…!本当にありがとうございます! うれしいです。心から。