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<短編小説>聖母またはある女優が見た夢

 2000年11月のある満月の夜。池村桂子の所属する劇団は、20世紀末を彩る演目ととして選んだ「サロメ」の、最後のリハーサルを終えた。まだ師走までには時間はあるが、急に冷え込んできた夜の街には、どこか忙しない人の姿が多く見えた。桂子はそんな人たちの中を、まるで急流に逆らうようにして家路を急いでいた。
 
 次々と自分の進路を妨げるようにしてくる人並みを避けながら、桂子は「そういえば、去年は1999年ということで、これで20世紀が終わるって世間は大騒ぎしていたけど、何も起こらなかったわ。そして、20世紀の本当の最後は、今年、つまり2000年だってことを皆知らないのかしら」と考えていた。

 そして、「でも、今年に何かが起きたら、本当に世紀末になるわね」と思わず口に出そうになって、あわてて手で唇を押さえた。念のため周囲の人並みを見まわしたが、誰も自分が歩く先だけに関心があるという雰囲気で、桂子が独り言を言ったとしてもそんな声は聞こえていない風だったし、そもそも桂子がそこにいるということすら認めていない様子だった。

「都会の孤独」、という言葉が桂子の頭に浮かんだが、その頃はもう自宅のドアを開けるところだった。

 桂子は家の中に入ると、いつものとおり簡素な夕食を済ませ、風呂に入り、ベッドに向かった。TVで言えばまだゴールデンタイムというような時間帯だったが、明日の初演に備えて、桂子は十分に体力を温存しておきたかった。また、高ぶる神経を少しでも休めたいと考えていたのだ。

 しかし、ベッドで横になっても、なかなか寝付かれない。それにカーテンの隙間からチラチラと入ってくる、近所にある中華料理屋のネオンサインが、桂子の視線を刺激してくる。思わず、中華調理の濃厚な匂いすら漂ってくるような気がしたが、さすがに桂子の睡眠を邪魔することまではできなかった。

「この公演が無事終わったら、・・・もしかすると世紀末だから、何かあるかも知れないけど・・・あの中華料理屋で思い切りラーメンと炒飯を食べてやろう・・・」と、桂子は半分意識を失いながら、ぼんやりと考えていた。やがて、眠りについた。

 桂子は夢を見ていた。そこには、長髪でやせていて髪の毛よりも長い顎髭を持った、まるで予言者といった方が相応しい老人がいた。その老人は、どうやら演劇の舞台監督らしく、舞台の袖に隠然と立ち、あたりに散らばっている盾を持った古代の兵士役に、老人とは思えぬ強い口調で、次々と演技を指示していた。

 老人の演技指導に従い、その盾を持った兵士たちは、同じ舞台の隅にいる桂子に襲い掛かってきた。夢の中なので言葉が出せない桂子は、強い恐怖感を覚えた。しかし兵士たちは、桂子を盾の下に押しつぶすと、さらに力を込めて舞台の床に押し付けてきた。盾の下の桂子は無言だったが、それを見ている桂子も、夢の中では何も言うことはできなかった。桂子がそうして圧殺される自分の姿を眺めていると、しばらくして兵士たちが盾を持って次々と起き上がった。盾の下には、横たわっている桂子の姿が見えるはずだった。しかしそこにあったのは、もはや人の姿をとどめない、ばらばらになった残骸だった。

 翌朝、桂子は劇団事務所に向かうと、すぐに「サロメ」の演出家にこの夢の話をした。あまりにも恐ろしい夢だったので、桂子としてはそうせざるを得なかったのだが、演出家に対して、桂子が盾の下に入る演出を変えるように頼んだ。もちろん、舞台全体の支配者である演出家は、桂子の依頼を無視した。「そんな夢の話につきあっていられるか」とさえ言われた桂子は、自分の恐怖の大きさをさらに訴え続けた。

 演出家は、桂子の演技とは思えない必死の形相を理解したのか、とうとう依頼を認め、「まったく馬鹿げたことだし、そして不本意なことだが」と前置きしつつ、兵士の持つ盾をもっと柔らかい材質に変え、さらに兵士役の俳優を別の俳優と交代させることにした。初演当日の朝という、非常にあわただしい状況だったが、兵士役を交代した俳優たちは、もともと兵士役としてのセリフはない上に、単純な演技だったこともあるのだろうか、まるでそうなることを予想していたように、演出家からの突然の交代の指示を平然と聞き入れた。

 それから十時間ほど経ったその夜、「サロメ」の舞台は幕が開いた。オスカー・ワイルドの原作を尊重したこの芝居は、時間の経過とともにたんたんと進行していき、まもなく終局を迎える場面となった。サロメ役の桂子は、「サロメの踊り」を優雅に舞いながら、その七つの薄いベールを次々と脱ぎ捨てていった。それにつれて、舞台照明は徐々に暗くなっていった。ヘロデ王役の俳優は、桂子の踊りを悠然と眺め、ヨハネ役の俳優は、桂子の踊りを恐怖の目で見ているのが観客に見えた。これから何か特別な舞台演出が、それもヨハネの首を切る以上の驚くような演出が、待っているように感じられたのかも知れない。

 ベールを脱ぎ捨てて全裸となった桂子は、照明が暗くなっている場所へ逃げるようにして移動し、そこで盾を持った兵士たちに囲まれ、押し倒され、盾の下にもぐりこんだ。演出家と相談したとおり、盾は柔らかく、兵士たちからの圧力は小さいものだった。そして、盾の下にいる桂子の姿は、観客からは全く見えなくなっていたので、観客はそこで何かが起こるのではないかという期待を持った。すると、まるで雨粒が一つずつ軒先から落ちるような音が、舞台で聞こえた。そして、兵士たちは盾を持ってゆっくりと立ち上がった。

 観客が見たのは、そこにいるはずの桂子の姿がどこにもいないこと、そして演技ではなく、本当に呆然とする兵士たちやヘロデ王、そして首を切られるはずのヨハネの姿だった。

 盾の下に入った桂子は、突然自分の身体が深い暗闇に落下するのを感じた。それは、舞台装置の一つとして床が開いて落ちるようなものではなく、もっと長く暗く、まるでタイムスリップするような感じがした。「これは、不思議の国のアリスが、ウサギ穴に落ちたようなものね」と、桂子は落下しながら思っていた。「アリスなら、昔演じたことがあるわ。そして、その行き先もわかっている」と、桂子はさらに自分に言い聞かせたが、落下が予想外に長い時間続いたため、桂子の意識も、まるで寝入るように薄れていった。

 どのくらい時間が経ったのだろうか、桂子が目を覚ましたときは、桂子が予想していたアリスが落ちた先の庭園ではなく、白色の壁に囲まれたどこか無機質な感じがする小さな部屋だった。桂子が起き上がって周囲を見回すと、そこに二人の人間がいることがわかった。その一人は若い女で、中東系と見られる大きな目、濃い顔立ちをしていた。服装は古代風の色染めもしていないかなり粗末なものだったが、桂子の姿を慈愛の目で見ているように感じた。もう一人は中年男で、なぜか19世紀末ビクトリア朝風の女装をしていた。そしてその男は、自分で「オスカー・ワイルド」と名乗り、桂子の姿を納得したような表情で見つめていた。

 その二人に促されて、桂子は隣の灰色の壁に包まれた小さな部屋に移った。部屋の床には、藁が敷き詰められていた。たぶん、馬だろうか、動物の匂いを感じた。すると、夢の中に出てきた予言者風の老人が立っているのが見えた。その老人の腕には、異様に肌の白い、どこか光を発しているような雰囲気を持った赤ん坊が抱かれていた。桂子は、その老人よりも、赤ん坊の方を思わずじっと見ていた。そうした桂子の反応を予期していたように、老人は桂子に話しかけた。赤ん坊の泣き声も、桂子に話しかけているようだった。

「この児は、あなた、そう桂子さんですよ」

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