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<書評>『都市の肖像』

『都市の肖像―ヴァルター・ベンヤミン著作集11―』 ヴァルター・ベンヤミン、 岳澤静也、藤川芳朗、柴田翔各訳、編集解説 川村二郎
原著は、Walter Benjamin, Werke 11、Suhrkamp Verlag K G, Frankfurt

都市の肖像

 原著のフランクフルトでの発行年は未詳だが、ベンヤミン自身は1940年にパリから逃亡途中のスペインで自殺している。そして、本書を構成する各文章の作成年は、1925から1932年となっている。つまり、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの、束の間の平和が続いた時代に書かれたものとなっている。

 ところで、私が現代思想家全般について参考にしているのが、1978年に青土社から発行された雑誌「現代思想」の臨時増刊「現代思想の109人」だ。この中にベンヤミンも入っていて、彼がユダヤ系のドイツ人であり、ベンヤミンが生きた時代に流行したマルクス主義思想に感化された言論人だったことがわかる。そして、当時はナチスが支配する時代でもあったため、ベンヤミンは流浪の旅人とならざるを得なかった。親ナチ政権であるスペインへ逃げずに、もしアメリカに亡命して自殺することなく生き続けていたら、もっと多彩な思索の跡を残せただろうし、スターリン出現以降のマルクス主義に対する批判も期待できたのではと思う。

 私は、マルクス思想については、経済学での貢献は認めても、政治思想としては現在進行形でいまでも残存している壮大な歴史の失敗例があるため、まったくコミットしないし、コミットしたいとも思わない。そのため、ベンヤミンのマルクス思想に感化された著作を読むつもりはないは全くない。なぜなら不毛な思考だからだ。

 そのため代表作とされる『暴力批判論』を読む予定はないが、マルクスの呪縛から逃れた芸術評論家としての『複製技術時代における芸術作品』、『ドイツ悲劇の根源』は読みたいと思う。また、『1900年前後のベルリンの幼年時代』も、優れた歴史書として、いつか余裕があれば読んでみたいと思っている。

 というわけで、本書『都市の肖像』だけを読んで、ベンヤミン全般について何か語ることには無理があるし、敢えてやれるものでもないし、またやるつもりもない。何しろ、『都市の肖像』は基本的にエッセイであり、思想書ではないからだ。また、第一に旅行記であり、評論的な面を含んでいるとしても、評論そのものではない。実は、そうした気分で気軽に読み始めた(実は、30年以上前購入時に読んでいたようだが、まったく記憶に残っていない)が、読み進めていくに従って、どうも面白くないことに気づいた。

 唯一面白いと思えたのは、1920年代のナポリの項目で、やくざと貧民による無法都市ぶりが面白かったし、そうしたものが現在のナポリにつながっていることが良く理解できた。また、異様で苛烈な共産主義プロパガンダに染まったモスクワの項目は、政治とは無関係に生きている、都市の下層市民や貧民たちの自堕落な生活ぶりの描写が、何か下級市民の持つ底力というか、動物的な民衆のエネルギーを感じて、これは政治運動などでは決して変わらない、変えられない根源的な生きる力そのものだと実感した。それはまた、言葉の正確な意味で「市民」なのだと思う(つまり、コミュニストたちがお経のように使う「市民」とは、はるか遠いところにある歴史的実在だ)。

 ところで、昔読んだ痕跡が「マルセイユのハシーシュ」の最後の箇所にあった。そこには、「ハイデッカー的」と鉛筆で書きこまれている。その該当する文章を抜き書きしてみる(注:念のため、このハイデッカーとは哲学者のマルティン・ハイデッカーの意味)。

「・・・もしも、私たちに愛が存在するこの時代に、私たちが現存在(いまここ)が金貨のように自然の指をとおりぬけ―それを自然はとどめることができずなすがままにまかせるのだが―そうして新しく生まれ変わったものを獲得するのならば、そのとき自然は、なにも望むこともなく、期待する必要もなく、物惜しみせずに、私たちを現存在(いまここ)にむけて投げつけるのだ。」

 この表現は、ベンヤミンがハシーシュ(麻薬)を服用したことの効用を述べていると理解するのが自然だろう。しかし、特に最後の「私たちを現存在に向けて投げつける」という表現は、ハイデッカー哲学の「現存在は、贈りつつ贈られるものとして存在の投げることのうちに現成するのです。」(『ヒューマニズムについて』P.36 佐々木一義訳 理想社「ハイデッカー選集23」より)に近似していると、今でも私は思う。

 では、この「存在の投げつけるもの」とは何か、については、今ここで何か私が書けるものではない。誰もが知っているように、それは古今の大哲学者たちが総力を挙げて探求してきたものだからだ。しかし、この深遠なテーマについて、ベンヤミンがやったように、エッセイのような、また芸術のような形で語ることによって、その近辺に近づけそうな気がする。

 例えば、「その近辺に近づいた芸術作品」として今も残る遺産は、ダビンチの「聖アンナと聖母子」やミケランジェロの「ピエタ」だろう。もちろん絵画だけではない。映画の世界では、キューブリックの『2001年宇宙の旅』の宇宙空間を浮遊する宇宙船の姿に、「その近辺」が見えた瞬間があった。演劇の世界では、ベケットの『ゴドーを待ちながら』のセリフの端々に、「その近辺」が聞こえている。

 そうした観点から改めて考察すると、本書はほんの些細な小品ではあるが、もしかすると「神の細部」=「その近辺」に至るための、か細い一本の糸になれるものなのかも知れない。

聖アンナと聖母子


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