見出し画像

<閑話休題・哲学>『論理哲学論考』の最後の言葉と「沈黙」について

 ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインLudwig Wittgenstein の『Tractatus Logico – Philosophicus』は通常『論理哲学論考』と翻訳されている、彼の最初の哲学書である。その後ウィトゲンシュタインは、一時哲学を止めて田舎の小学校教師になるなどの紆余曲折を経て、この初期の概念を解消・発展させていき、「言語ゲーム」という概念に到達したと見られている。もとよりウィトゲンシュタインの哲学は、この『論地哲学論考』以降、他人に読ませることを対象にした著作はなく、個人的な覚書きのレベルを残していたところ、これを死後に友人が編集したものとなっているため、その全貌を的確に把握する作業が現在も続けられている。

『論理哲学論考(英語版)』

 一方、『論理哲学論考』の最後の言葉―つまり、結語・結論に当たると見なせるもの―は、「What we cannot speak about we must pass over in silence」と書かれているが(原文はドイツ語だが、ドイツ語から英語への翻訳は、日本語ほど大きな違いは出ないので、原文のニュアンスを良く伝えていると理解した上で)、一般的には「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と翻訳されている。
 
 この翻訳について、私は少し違和感を持っている。英語文を直訳すれば、「なんと我々は、話すことができないのだろうか、沈黙について放置すべきことについて」となると思う。これをさらに日本語らしく修文すれば、「沈黙ということについては、ほっておくしかないとされているが、これについては本当に話すことができないのだ」、「沈黙に関して語りえないとしていること自体が、なんと語りえないのだろう」となり、上述の「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」とは主語が逆になっているように思う。
 
 ここで私が「主語が異なる」としている対象は、「語りえぬもの」と「沈黙」である。そして、このどちらが主語としてより相応しいのかということについては、私はそれを論じられるほどのウィトゲンシュタインの専門家でもなんでもないので、それこそ「語りえない」し、「沈黙」するしかない。
 
 ただ、英語の語順から考えれば、「沈黙」が主語になるのが自然ではないかと思う。もしかしたらドイツ語原文では、明らかに「語りえぬもの」が主語として書かれているのかも知れないが、上述したようにドイツ語→英語は、日本語にするより文法や語順の相違が少ないから、考慮する必要性は低いと思う。
 
 とはいえ、ウィトゲンシュタイン哲学の中心テーマは「沈黙」ではなく「語りえぬもの」、つまり「言語の限界を超えたところ」にあるから、初期の論文であるとしても、「語りえぬもの」を主語にするのが正統なのだろう。
 
 それでも私は、「沈黙」という言葉にこだわってしまう。それは、私が好きなサミュエル・ベケットの生涯のテーマが「沈黙」だったからでもある。この参考として、イングマル・ベイルマンの傑作映画「沈黙」があるが、このテーマとなる「沈黙」は人対人関係での沈黙ではなく、人対神関係の沈黙、つまり神が人の問いかけ(願い)に対して沈黙し続けていることの「沈黙」である。
 
 これまでもまたこれからも、人が問いかけたとしても神は直接声に出して答えてくれることはないから、神の「沈黙」は永劫不変だ。そのため、古から自然現象や生贄にした動物の死体の形象やカードに出た徴などを神の声を表象したものとして、人は恣意的に解釈してきた。また、神の代弁者として僧侶が出現し、実際に本当の神の声を聞いているとは思えないものの(天啓や奇跡があったと称して)、僧侶たちは自分たちが勝手に理解した(もっと言えば、神とは無関係に自分たちの都合の良い)言葉を、神の声として信者に伝えてきた。
 
 だからこそ、代弁者を通じてではなく神から直接聞きたい、聞いてみたいと人々は願い続けているのだが、これに対して神は「沈黙」として答えるだけである。では、この「沈黙」は「言葉」として理解すべきなのかと言えば、たしかに言葉とは音に出すだけではないと見なせるため、この「沈黙」も立派な「言葉」だと言える。実際、ベケットの戯曲には「沈黙」とか「間」という「セリフ」が沢山出てくるから、少なくともベケットは、「沈黙」を言語表現の一環として使っている。
 
 また例えば、日本の落語や講談の世界でも、ぺらぺらと立て続けにしゃべるのが芸だとは見なされていない。一流の落語家や講談師は、絶妙な「間」を使うことが知られている。実は、語りの芸では流暢に言葉を発するだけでは不十分であり、間をうまく使いこなすことが重要になるのだ。つまり、人対人のコミュニケーション手段として、間は言葉の一部として認識されている。
 
 このベケットや落語・講談の事例を参考にすれば、「神の沈黙」という事実は、「言葉」として人々に十分に伝えられているのではないかと理解できる。一方、これをなんとしても理解しようとして、無理矢理に「神の沈黙の意味とは何か」とさらに突き詰めるとしたら、それは余計なことであり、また「沈黙」自体を理解したことにはならないから(「沈黙」そのものを受け止めたことにならないから)、「沈黙」はそのままの沈黙として、つまり「言葉なき言葉」としてそのまま受け止めるしかない。だから、「沈黙」とはそれ以上でもそれ以下でもないし、そこから先に進むこともない言葉なのだ。
 
 従って、後期のウィトゲンシュタインに明らかに息詰まっていた兆候があったことは、結局「沈黙の先」を探し続けることの不可能さ、つまり、「語りえない」という『論理哲学論考』の結語に戻ったのではないかと、私は考えている。つまり、思考が一巡して最初に戻ったということだ。これは十分あり得ることだし、またその思考過程を肯定できるものだと思う。
 
 しかし、世界の哲学界は、『論理哲学論考』を完全に理解しているとは思えない前提がありながら、その先としての「哲学探究」の世界を必死に理解しようとし、またその理由として『論理哲学論考』はウィトゲンシュタイン自身によって否定された未熟な哲学と措定して満足している状況がある。実は、これは拙速な判断だったのかも知れないという論述がこれから出て来ても、私は決して不自然ではないと思っている。
 
 「沈黙」については、「語る対象」にしてはならないのだ。そして、「神」が語ってはならない対象であると前提すれば、「神」=「沈黙」と見なすことも論理的に可能である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?