『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』

 ジェイムズ・リーバンクス氏は、イギリス湖水地方の農場で生まれ育ち、一度は大学へ行くものの、今も農場で暮らしている。本にTwitterのアカウントがあるので、ちょっと覗いてみた。かわいらしい羊たち、変わった色の牛たちの写真が並んでいる。

 湖水地方の四季、羊、そして羊飼いたちのリアルな生活を描くノンフィクション。オリジナルの初版は2015年の5月だが、それ以前の話が多く含まれていて、価格については1ポンド180円で計算されているようだ。

 写真には牛も登場するが、この本の主役は羊と羊飼い、それに牧羊犬だ。
 羊たちは夏の間フェル(山)に住む。その間に農場では、干し草用の草を育て、干す。石垣を修復する。干し草づくりに失敗すると、冬が悲惨だ。
 羊飼いたちは犬を使って放牧した羊たちを集める。毛刈り、ハエ除けの薬など、必要な処置を施す。この作業は同じ場所で放牧する仲間たちの共同作業になる。ハードウィック種の毛は値がつかず、燃やしてしまうときもある。それでも、ハードウィック種は過酷な環境に強く、肉の品質が良いという。

 秋は取引きの季節。品評会、競売があり、自分の農場に必要な羊を購入したり、逆に必要のない羊を売ったりする。歯の状態など、細かいところに注目し、羊の値段を決めて競り落とすなど。
 仕入れた羊で交配作業をする。羊をペイントし、交配のタイミングがわかるようにする。その結果が翌年の稼ぎに影響を与える。

 冬は過酷だ。農場が雪で覆われ、日は短く、短い時間で餌やりの仕事、そして羊たちの命を守る仕事をしなければならない。ときには一刻を争う。緯度の高い地域なので、冬は長い。体力を失った羊がキツネなどに狙われることもある。
 四輪バギーが雪のせいで動けないこともある。近所の農場主たちと助け合い、安否確認をしながら作業を進める。
 双子を妊娠している羊は干し草以外にも餌が必要で、検査をして、正確に対処しなければならない。

 春は出産。冬の大変な時期を乗り越えたばかりで、妊娠している羊たちもさほど体力がない。羊を引っ張り出す仕事は、子どもたちも手伝う。急いで子どもに母乳を飲ませなければ、死んでしまうが、むやみに手を出さないほうがいい場合もある。
 生まれたばかりの羊たちは、キツネなどの餌食になることもある。悪天候の中の出産もある。トラブルがないか、こまめに見回りをしなければいけない。
 新たに生まれた子羊たちは、それぞれの処理が必要。食肉用の雑種の断尾、去勢。ワクチンや寄生虫予防、決められたマイクロチップの埋め込みやタグづけの作業など。

 著者とその家族は、ずっとハードウィックを育てていたわけではない。スウェイデールという別の種類の羊や、改良品種も飼った。
 ときには大きな事件が起きることもあるが、彼は農場を愛し、働き続ける。


 湖水地方と聞くと、個人的にはファンタジーの作家たちが愛した場所、のようなイメージがあった。実際、ビアトリクス・ポッター(ピーターラビットで有名)が農場にいたという話は登場するが、この本は、湖水地方に住む羊飼いたちの、リアルな仕事に関する話だ。

 著者は観光に来る人々に対して、景色だけを見て自然の厳しさを見ない、と批判していた。機会があれば行ってみたいとは思っていたが、この著者からみたら、私のような人間は、邪魔な観光客にしかならないのだろう。なれない、というべきか。
 育ちによっては、そうならざるを得ない、とも感じる。アブを踏んで刺された状態になり、「私、死んじゃうの?」と尋ねた友人がいたが、都会人は往々にして自然についての知識がない。また、私も含めてアレルギー体質の人もいる。0歳児のうちに動物と接していれば、ふつうはアレルギーは発症しないらしいが、都会で育つと動物と接する機会がない人は珍しくない。そういう意味でも、都会人は、ありのままの自然の環境に弱いと思う。

 生まれる場所を選べる、という一部のスピリチュアルの話は置いておいて、基本的に私たちは、「自分が選んでその場所に生まれてきている」と思って生きているわけではない。(個人的には選べるとは思わない。死ぬために生まれてくるような人も存在するのだから)
 農場に生まれれば、農場の仕事を手伝う生活が子どものころから日常であろうし、私が育ったような環境に生まれれば、大学へ行くことを親に強制される人もいるだろう。もちろん、家庭による差は多少、あるけれども。
 少なくとも、私は羊がどう育てられるか、などということは考えたこともなかった。母が織物をするのに、羊の毛を一頭分まるまる購入したとか、その店は羊の臭いが充満しているとか、そんなことを耳にするだけで、羊の肉を好むわけでもない。母が羊の毛をまるまる買うようになるまでは、日本で羊を飼っている人がいるとも考えなかった。(私自身はこういうウールのような素材に弱い体質なので、なかなか触れる機会もない)

 ここで語られる湖水地方の羊たちは、羊毛が収入になるという雰囲気ではない。どちらかといえば、食肉用の羊の育成であり、羊の子の雄たちが一部を除いて売りに出され、食用として流通し、選ばれた雄たちは別の農場の雌たちとの交配のために売られる。こういう話だ。
 羊の毛の質は、羊の種類や育つ地域によって違うらしい。しっかり詰まった硬い毛は、寒い地方の羊に特徴的なのだろう。当たり前といえば当たり前だ。犬の毛もそうであるように、種類と住む地域によって、長さから量まで、だいぶ違うはずだ。

 種の保存が重要だと主張する人々がいる。そうでなくても、ハードウィックが特別その土地に合っていて、その土地で生き延びるのに向いている、というのはどうも事実らしい。
 生物全体の傾向を見ると、雑種は強くなる傾向があるように見えるが、純血種の場合、同種と掛け合わせれば(極端な突然変異でもない限りは)必ず同種になる。これは、毛の質から肉質まで、次の世代も同じように生まれてくる、という保証になる。そういう意味では、たとえば肉質の均一性が商売に必要とされる場合も、需要が高くなるかもしれない。

 仕事内容は畜産業。穀物や野菜を育てる仕事も相応の技術が要りそうだが、畜産は動物相手だ。相手が動き、力がある分、余計に人間の思いどおりにするのは難しそうだ。
 農場の生活が楽だ、などとはとても言えない。本を読む限り、どうしても悪天候、血液、臭い、力仕事、というイメージが避けられない。機械化もある程度までで、動物相手であれば、必然的に男性の仕事、重労働、といった話にもなるのだろう。
 そんな大変な仕事でも、著者は自身の仕事に明らかに誇りを持っている。大学へ行ったにもかかわらず、自身のアイデンティティが「湖水地方の畜産農家」であり、羊を育てることが彼にとっては重要で、大学は親と喧嘩したために行っただけである、という雰囲気が感じられる。
 羊の交配や出産を手伝わなければ、自分がただの客人にでもなったような感じがするらしい。そして、著者自身は決してそれを望んでいなかった、という印象も受けた。

 これは女性の労働ではない。女性たちはケーキやショートブレッドを焼いたり、刈られた毛を袋に詰めたりしているのであって、決して自ら毛を刈ったり、銃を手にカラスを撃ち殺したりしている様子はなかった。(銃も反動があって、ある程度の筋力がないと、扱うのが難しそうだ)
 いくら男女平等といっても、やはり男性でなければ務まらないような力仕事は存在するのだ、と思わずにいられない。

 個人的に興味深かったのは、著者が大学へ行って初めて、都会人の気持ちを少しは理解できるようになったらしい、という点だ。オックスフォードに滞在していたとき、緑が見えず、「逃げたくなる」と書いていた。
 ただ、オックスフォードは正直、まだマシだと私は思う。

 東京などの都会は、少々ギラギラしすぎている、と私は常々思っている。何もなくても、繁華街には大きな看板、広告、ネオンなどがあふれていて、美しくない。高い建物が多く、空を見上げてもきれいには見えないし、高い位置に掲げられた看板も、もはや目立ってさえいない。機能性を重視するのはわかるにしても、住宅街でさえ、電信柱や電線が張り巡らされ、歩道橋のような人工物があちらこちらに存在する。これを煩わしいと感じないとしたら、単に感覚が麻痺しているだけではないだろうか。
 ロンドンもオックスフォードも、都会という意味では、さほど変わらないが、どちらも東京育ちの私から見れば、どこか落ち着いていて、東京にいるほど疲れない。高い建物が少ないからか、ぎらついた広告が見当たらないからか、いずれにしても、東京のような、片づけられない人の部屋のような印象は受けない。
 確かに、ニューヨークやラスベガスのような場所もあるし、ドバイも「ニュードバイ」のほうはギラギラしている。これを「発展している」「反映している」と評価する人がいるかもしれないが、私は賛同しない。こうした方向に進めば、そこに住む人々は疲弊していくと私は思っている。

 虫は怖い、犬にアレルギーがある、などと言いながらも、やはり都会の風景に嫌気がさしている。
 これは私だけの問題だろうか。

 効率重視の経済社会は、何か大切なものを置き去りにしている。
 私たちは本来、農業から離れて生きられるものではない。自然に不慣れな人間ほど、何かあった際には弱く、頼りにならない。もちろん、これは私自身も含めて、である。

 私たちは食べずに生きることはできない。農業は軽んじられるべき仕事ではなく、むしろ社会の基盤でさえある。こうした労働者が収入をとれず、頭脳労働ばかりが優遇される社会自体にも、違和感を覚える。確かに生きる権利があると考えれば、だれでも低価格で食事ができることは重要ではあるが、社会の構造として、このような労働に対する対価は低くなるべきではない。

 そんなアンバランスな世界に疑問を投げかけてくれる一冊。


※オリジナル ↓


※追記:
Twitterアカウントの件を書きましたが、どうもその後、方針が気に入らず、
Twitterを離れることにされたようです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?