見出し画像

わたしが死んだら、宗教葬じゃなくてパステルカラーのお花をたくさん飾ってね。~死について話すことをタブー視しないこと~

自ら自分の人生を終わらせることは不幸なのだろうか。自ら人生に幕を下ろすということは、命を粗末にしているということなのだろうか。

多くの人は死を恐れ、死について話すことをタブー視し、生きたくても生きられなかった人と比べ、死を身近に感じることがない。

*

人の人生が終わる時、人は死に際だけを見てその人の人生が幸せだったか不幸だったか決める。

人の終わり方が悲しい時、人はその人の人生すべてが不幸であったかのように語る。死に至るまでに、こんなにも苦しんで生きた、という悲しみを想像しやすいからだろうか。

人の人生は、その亡くなり方で決まるものではない。最後の点に至るまでに、何度も何度も点があり、楽しさや、嬉しさ、もちろん幸せも、たくさん味わって生きたはずだ。

人の終わり方が悲しい時、人はその人の人生すべてが不幸であったかのように語る。死に至るまでに、こんなにも苦しんで生きた、という悲しみを想像しやすいからだろうか。

どんな終わりを迎えようと、人生には様々な出来事があり、喜びがある。数十年続く命の線は、暗闇を通り、茨の道を通り、そして、柔らかい日差しが降り注ぐ穏やかな道も通る。外から見てとてつもない大きさの悲しみを抱えていたように見えても、必ずその人は、人生のどこかで幸せを感じていたはずだ。

だから、終わりの一点だけを取り沙汰して、「きっとあの人は不幸だったに違いない」そんな妄想話で、まるでその人の人生すべてが悲しいものであったかのように、その人そのものが惨めな人であったように仕立て上げるのは間違っている。

*

たとえ誰かが、自らの人生の終わりを自ら決めたとして、それは不幸なことなのだろうか。

「きっと死の瞬間後悔したに違いない」なんて、生きる者たちの推測でしか無い。

自らはどんな終わりを迎えたいか。やむを得ず終わりを迎えるとき、どう生きた人でありたいか。死を見つめたことがあるということは、悲しいことなんかじゃない。不幸なことなんかじゃない。どれだけ避けようと、いずれは向き合わなければならない日が来るのだから。

人はいつか必ず死ぬ。それは、変えようのない事実だ。

それならば、その最後の点を打つ日まで、どう生きたいか、どう死にたいか、シンプルに語り合おう。

タブー視して避けるだけでは、なにも発展しない。

だから、わたしが死んだらお葬式は宗教式じゃなくて、白黒に菊なんて定番の葬儀なんかせず、パステルカラーのお花をいっぱい飾ってね。

どんな終わりを迎えても、そのときは悲しまないでね。たぶん、苦しくて死んだんじゃないから。

なんて、一見暗くも感じる話を、話してみるところから拓ける明るい道がきっとある。答えは何でもいい。ただ、思うままに、話そう。

*

さいごに…

覚えているだろうか、これは小林麻央さんがBBCに寄稿した言葉だ。

例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。「まだ34歳の若さで、可哀想に」「小さな子供を残して、可哀想に」でしょうか??私は、そんなふうには思われたくありません。なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955

この言葉は、わたしの死生観に大きな影響を与えたことばのひとつだ。だからわたしは、その人の終わりの瞬間一点だけを見て、勝手に同情して悲しむようなことはしたくない。その人がどれだけ、たくさんの喜びや幸せを感じて生きたかを知りたい。


おいしいごはんたべる…ぅ……。