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紫がたり 令和源氏物語 第三百十四話 若菜・上(八)

 若菜・上(八)
 
陽も落ちて、源氏が院の御前を辞去する頃には雪がはらはらと舞っておりました。
 
とうとう承引してしまった。
紫の上にはなんと伝えればよいのであろう。
 
ごとり、ごとり、と車の音だけが響く静けさが自身を苛むようです。
いつかの朝顔の姫宮に執心していた折の虚ろに涙を流す紫の上の姿が脳裏に甦りました。
 
もうあのようなことは二度とするまいと誓っていたはずなのに、またあの人を苦しめるようなことをしてしまうとは。
 
源氏は重い溜息を吐きましたが、姫宮を引き受けると言ってしまったからにはもう取り返しがつかないのです。
折をみて話すしかあるまい、と己に言い聞かせた源氏の君ですが、紫の上は帰邸した源氏の瞳に宿る翳りを帯びた色を見て、すべてを悟ってしまいました。
幼い頃から源氏の側にいた彼女と源氏の間には、他人にはわからぬ絆があるのです。
それはこのような残酷な真実さえもそれと紫の上に告げてしまうのでした。
その夜源氏は何も言い出せぬままでしたが、紫の上は心を落ち着かせるのに必死でなかなか眠りにつけませんでした。
 
なんとこの期に及んでみっともないことになろうとは。
源氏の一の女と言われ、奢っていた自身への戒めか、そう自問自答を繰り返す紫の上です。しかしそんなことを考えたところでこれから訪れるであろう現実は変わるはずもなく、心は疲弊してゆくばかりなのです。
救いを求めるように袖の袂に忍ばせた数珠を握りしめると、胸の苦しみがすっと引いてゆくように思われました。
そうだ、御仏におすがりしよう。
女三の宮が迎えられて源氏があちらに心を移したら出家の旨を願いでよう、そう考えるだけで凪のように心は鎮まり、紫の上はようやく眠りに誘われたのでした。
 
翌日の朝も雪がしんしんと降り続いて、あわれをもよおす風情です。
雪の庭を眺めながら、源氏は昔のことなど心に浮かんだままを徒然に語りはじめました。
それはまるで源氏が二人の共にしてきた時間を確かめているかのように紫の上には感じられましたが、ただじっと耳を傾けて静かに目を伏せて控えます。
「朱雀院は御心が弱くなっておられてね。面痩せされているのが痛々しく感じられたよ。いろいろと行き違いがあって辛い過去(須磨退去)もあったが、私はあの優しい兄が大好きなのだ。涙を流されて世を儚んでおられるのを見てご降嫁を辞退することができなかったのだ」
源氏が探るように横目で見るのを紫の上は不愉快に感じました。
あなたの御心が望んだのでしょう、そう詰りたい気持ちはありましたが、その心はもう御仏の掌に委ねられているのです。
「それはお気の毒なことですわ。院の御心が慰められるのであれば仕方のないことですものね」
穏やかな気持ちですんなりと言葉が出てくるのは不思議なものでした。
拗ねた様子でもなく、まっすぐ源氏を見据えて答える紫の上の態度が源氏には予想外なもので、不意をつかれたようです。
「本当に心からそう思ってくれているのかね?なんだか私は愛想をつかされたようで落ち着かないが」
まったくこの君はどこまで身勝手な御方なのでしょう。
「嫌な方ね。わたくしも院をお気の毒だと思うから申し上げたのですわ。女三の宮さまこそわたくしがここに起居するのをご不快に思われなければよろしいのですけれど」
「あなたがそう言ってくれて嬉しいよ。あなたへの愛は変わらないですから、世間にはつまらぬことを言う輩があっても耳を貸してはいけませんよ」
愛というものをこの人はご存知なのであろうか、と紫の上はぼんやりと考えました。
男の愛と女の愛が違うこともご存知ではないものを・・・。
 
それよりも気に懸ることといえば、世間は大騒ぎになるでしょう。
きっと面白おかしくあげつらうに違いありません。
紫の上は自分の継母にあたる式部卿宮の北の方がまたぞろ悪しく言うに違いないと考えるだけで辛きこと。しかし御仏にお仕えしようというこの身にはもはや瑣末なばかりと切って捨てました。

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