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令和源氏物語 宇治の恋華 第一話

 第一話 序
 
おぼつかな 誰に問はましいかにして
        始めも果ても知らぬわが身ぞ
(私の身の上というものは如何にして誰が示してくれるのであろう。問うべき人もおらずにいるものを、先のことなど尚も考えられることではあるまいに・・・)
 
時は流れる。
人がどのような感慨をもってしても、昔を留めることはできません。
そしてその礎がある為に受け継がれた今があるのです。

 
人は何を以て己を支えているのでしょう。
それは出自の明らかな人には無い悩みかもしれません。
霧が濃く視界を塞ぐ境涯におかれた君には先は見えず、手を伸ばして探ろうにもただ空を掻くばかり。
視界が紫の翳りに染まるのを、為す術もなく、置き去りにされたように身動きもとれないのです。


 「みなさま、ご覧になって。薫さまですわ。佇む御姿がまるで一幅の絵のようですわね」
「しっとりと落ち着いて、ほんに素敵な貴公子ですわ」
「あのような御方と想いあうことができたならば、どれほど幸せでしょう」
みずみずしく麗しい貴公子の瞳にちらちらと浮かぶ愁いを、垣間見てしまった女人達の深い溜息が木霊する宮中なのです。
 
『薫』と呼ばれる若君は、その名の通りにえもいわれぬ芳香が身から立ち上ると噂され、実際に君が物陰に身を潜めてもたちどころにその存在が知られてしまうという神秘さもあり、世の女人達が一度は逢いたいと慕うほどの美青年に成長しておりました。
女人はおろか時の帝を初め、世に名だたる貴公子たちにも一目置かれる存在なのです。
まるでかつての源氏の君がそうであったかのように。
薫君の白く儚げな面に伏し目がちの姿を見れば誰でも心を奪われずにはいられないでしょう。加えてその魅惑的な芳香はどのような香を合わせても足元には及ばぬのです。
世の人々は「さすがあの光る源氏の御子であるよ」と褒めそやしますが、当の薫君には、その賛辞は胸を抉られるほどに苦痛なものでしかありませんでした。
それはいつしか知った真の父は源氏の院ではないという真実。
幼い薫君をまだ物心つかないものと侮った賢しらな女房が、
「やはりあの御方に似ておられますわ」
そう悲しげに漏らしたのが最初でした。
事情を知らぬ女房も、
「大殿さま(源氏)とはまた違った風であるものの、他の稚児にはない品格が備わっておられるわね」
などと、日毎噂しておれば聡明な若君のこと、いつしか源氏が真の父でないことくらいは悟りましょう。無垢な者ほど人の感情の機微に聡いのです。
そうしてその真実は薫君を悩ませました。
目を閉じれば浮かぶ優しげな源氏の面。あの御方が真実の父であったならば、なんの苦も無く笑んでいられたものを。あの御方の子でもない自身がのうのうと養われている。幼子と言えど人目に宿る嘲りや侮蔑、憐憫などは安易に読み取れるものなのです。
身の置き所なく感じながら生い立った薫君は、そこはかとなく愁いを帯びた佇まいの子供でありました。
ほんの美しいばかりかと思われていた稚児から漂う芳香がどのような由ゆえか、人々は神秘を感じたことでしょう。しかし当の薫君にしてみれば、その人と違う徴(しるし)こそは生きることも許されぬ者の烙印のようで厭わしいのでした。

 
薫君が己が人とは違うと気付いたのは、童殿上として内裏へ上がった頃でした。
先輩の中流出の童は身分も低い為何も言いませんでしたが、薫を名門の子だからと、高直な薫衣香を焚き染めているのだと面白くなく僻みました。
しかし、薫にはまるで何のことか察しがつかなかったのです。
宮中にてすれ違う公達もこれはどんな香かと頭を捻るのを遠くに聞きましたが、よもや自身のものであると気付きましょうか。
ある時薫君を従えた兄・夕霧はそんな公達をそ知らぬ顔でやり過ごし、薫に異国から渡来した伽羅の匂い袋を持たせました。
「これは私の秘蔵の香なのだよ。お前が持っているといい」
そうして懐に忍ばせた香が薫の香りとあいまって益々複雑に、繊細に高まるのを夕霧は不思議に思いました。
 
この子はやはり他の子供とは違う。
いったい如何な運命を背負って世に産み落とされたというのであろうか。
 
夕霧は秘された薫の出生の真実を知っております。
その秘密も含めて父・源氏からこの君の庇護を託されたのです。
たといどのような運命を背負っていようともこの子を愛し、守ろうと改めて固く胸に刻んだのでした。
「薫よ、この秘蔵の香のことは話題になるであろう。貴公子達がお前に何かと尋ねるだろうが、そんな時にはこの夕霧からもらったとだけ答えなさい」
「はい、お兄さま」
これは夕霧の兄としての心遣いなのでした。
お洒落に余念のない貴公子達が薫の上品な芳香を見逃すはずもありません。まだ幼い薫に奇異の目が向けられるのが忍びなく、できれば普通の子供のように無邪気に生い立ってほしい、という思いからです。
世に名だたる源氏の息子というだけでいらぬプレッシャーをかけられて、身を慎んだ夕霧にはこの愛し子をそれ以上の好奇の目に晒したくはないと願ったのです。
そこには亡き親友への違わぬ友情もあるのかもしれません。
 
夕霧の思惑通り、数日後には薫の香は内裏で話題になっておりました。
その秘伝を知りたく詰め寄る貴公子達を夕霧はただ笑ってやんわりとはぐらかすのです。
「秘伝を明らかにしては秘伝ではなくなろう。面白くないではないか」
それはまさに亡き源氏の院の秘蔵の香であるか、とみな諦めざるを得ず、夕霧はそうして不思議な笑みを浮かべながら宮中を翻弄したのでした。
 
薫はどうしてこのように生まれついたのでしょう。
その艶やかで上品な香りが、いまだ消えぬ柏木の女三の宮への恋心の現れのようで、夕霧には今でもこの君の側に亡き友が添うていると思われてならないのです。
いつしか夢で見たように、柏木は幽冥を彷徨っているかと思うと胸の裡をせつなく寂しい風が通り過ぎるように感じるのです。
 
自分がどうしてこのように生まれついたのか。
それは薫自身にわかるはずもありません。
ただひとつ言えることは、二品(にほん)の宮を賜った母が他の男と通じてこの身が生まれ落ちたということだけ。
その苦悩は薫を恋に浮かれる他の貴公子たちのように、浮薄な行動は慎むべきと戒めました。
否、もしやその生まれゆえに恋の狂気の怖ろしさを本能的に悟っていたのかもしれません。そして己の裡に眠る熱情に目を背けるかの如く、固く身を持しているのでした。

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