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紫がたり 令和源氏物語 第二十三話 夕顔(七)

 夕顔(七)

秋の夕暮れはつるべを落とすがごとく闇色に染まります。途端に世界は一変してそれまでの和やかな時間はどこへやら。灯りも乏しいもので、貴族の姫君には常とは違うことに不安を禁じ得ません。傍らには頼もしい源氏の君がおりますが、このような寂しい破れた邸で夜を明かすというのは初めての経験で何やら落ち着かないのです。
辺りは風が出てきて、薄の泣くようなざわめきに夕顔は心細さを感じました。

ざわざわ・・・。

烏が鳴くのも不気味で、その羽音が間近なのが恐ろしいのです。
「なんだか背筋が寒くなるようで、怖くてしかたがありません」
「私がここにいるのだから、大丈夫だよ。安心なさい」
「はい、あなた」
眉根を寄せて怯える夕顔も可愛らしく思えて、源氏はそっと彼女を抱きしめました。

夜が更けていくにつれ、轟々と唸る風はさらに激しくなっていきます。
濃い闇がさらに密度を増して、じっとりと肌にまつわりつくような不快な気配さえも覚えます。このように恐ろしげな夜は今までに経験したことがなく、さすがの源氏も額から汗が滲み、平静ではいられません。せめて明かりをと、紙燭を側に寄せました。
「夕顔の君、私が守を致しますので、ゆっくりお休みなさい。右近の君も近くにおいでなさい」
「はい、旦那様」
夕顔は恐ろしさに小刻みに震えておりましたが、縋るように見つめる瞳には信頼の情がこもっているのがまた愛らしくてなりません。

どれほどの時がたった頃でしょう。
うとうととしていた源氏の枕元に妖しげにも美しい女が座っておりました。
横たわる源氏の顔を上から覗き込んで、嬉しそうに笑っております。あまりにも不気味で顔を背けたくなる君でしたが、金縛りにあったように身動きがとれません。
「やれ、うれしや。ようやくあなたとお会いできました」
笑った顔は真っ赤な口が耳まで裂けて、人ではない有様にぞっとするほどです。
「あなた、何故わたくしを疎まれるのです?このようなつまらぬ女に心を奪われるなんて。いっそこの手で女の息の根を止めてしまえばわたくしの元へ戻っていらっしゃるのでしょうか」
その目は冷ややかで恨みが滲んでおります。
言葉も発することができず、どうしようもない息苦しさに源氏の視界は掠められ、抵抗のしようがありません。
女はゆらりと立ち上がると傍らの夕顔に手を伸ばしました。
白い指が夕顔の首に食い込んで、きりきりと締め上げてゆきます。
源氏は顔を歪めて苦悶する夕顔を救うこともできない不甲斐なさに涙がこぼれました。
とうとう夕顔の体は力を失い、女はまた嬉しそうににんまりと笑いました。

「夕顔!!」
はっと目を覚ますと、ふっ、と灯りは消えました。
「殿さま、大変です。御方さまが息をしておられません」
右近の君の驚愕した声が闇を震わせ、源氏はとっさに夕顔の体を抱きしめました。
しかしその体は頼りなく、徐々に温もりが失われてゆきます。
「あの夢はまことであったのか?物の怪の仕業ならば息を吹き返すかもしれぬ。惟光、近う寄れ、弓を鳴らせ。右近は灯りを持て」
源氏は妖が嫌うとされる鳴弦をさせ、手燭で几帳(布でできた間仕切り)の内を照らさせました。
夕顔の顔は眠っているのかと思われるほど穏やかでしたが、その瞳は固く閉じられています。
見ると首元には細い指の痕が・・・。
源氏は恐怖のあまり身震いが止まらなくなりました。

次のお話はこちら・・・


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