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紫がたり 令和源氏物語 第九十三話 花散里(三)

 花散里(三)

源氏が妹姫の元を訪れた頃には夜もすっかり更けていました。
「ずいぶんとご無沙汰してしまって申し訳ない」
源氏は素直に謝りました。
「そんな・・・、こうしていらしてくれるだけで嬉しいですわ」
姫ははにかみながらも親しみやすい笑顔を浮かべて心底嬉しそうです。
美女ではありませんが、ほっとする笑顔に心の重いものが剥がされていくようです。
「近頃は大后に睨まれて、何をするにも辛いことばかりですよ」
政治のことを女人に話すのは慎んできた君ですが、ついつい甘えて本音を漏らしてしまうのです。
「そうですわね、辛いご時世ですわ。私は政事のことはまったく存知ませんが、あなたがいずれこの国の柱石となられる御方だということはわかります。世間があなたを必要とされるまでの今しばらくの御辛抱だと思いますの」
おっとりとして、その瞳は源氏を信じて疑わないまっすぐなものです。
「そうだろうか・・・」
「きっと、そうですわ」
その包み込むような温かさに辛いと思っていた心も溶かされていくようで、源氏は姫の膝を枕にごろりと寝転がりました。
「あら、恥ずかしいです」
「まぁ、まぁ。しばらくこのままでいさせてくださいよ」
姫は愛おしそうに源氏の額を撫でました。
この美しい君が不遇で痛々しくて、少しでも癒してさしあげたいと心の底から思う優しい姫君なのです。
庭の橘の香りが一段と高まって清々しく漂ってきます。
「気持ちのよい晩ですね」
「ええ、ほんとに」
源氏はこの時先刻口ずさんだ歌を思い出しておりました。
橘の花はまさにこの姫で時鳥(ほととぎす)は私自身なのだ。
あの後を追って飛んできた時鳥は私自身の心なのかもしれないな、と橘の香りに酔いしれて、この人の変わらぬ優しさに私も応えていきたいものだ、と素直に姫を愛おしく感じるのでした。

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