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紫がたり 令和源氏物語 第九話 帚木(五)

 帚木(五)

源氏はぼんやりとあの夜のことを思い返しておりました。
あれはどれほど前のことであったのか。
去年(こぞ)か、昨日の出来事であったのか。
あまりにも夢のようなことと思われたので、いつのことだったかなどは、どうでもわからず、いつでもありありと鮮明に思い起こされては反芻する甘い思い出なので、時という括りには縛られない記憶となっているのです。
消し去ることなどはできない。まるで生きる糧のように思い起こされるのに、それでいて源氏を苦しめるあの夜の出来事は秘されなければならないのです。

元服した源氏は宮中にて目覚ましい働きをし、背も伸びてぐっと大人びたのを父帝は目を細めて喜んでいらっしゃいました。
政務が終わるとよく源氏を近くに召して身の回りのことなどをあれこれと尋ねられます。
そして必ずそのお側近くの御簾の向こうには、憧れの藤壺の宮がいらっしゃったので、あの鳥がさえずるようなお声だけでも聞けないものか、と源氏の心はその度に浮き立つのでした。
日毎恋しさは募り、一日でも宮のことを考えない日はありません。


それは藤壺の宮が入内されてから五、六年ほど経った頃のこと。
宮は両親ともすでに他界され、桐壺帝を父のように頼りになさって入内されたので、お里に帰るということはありませんでしたが、ふと風邪をひかれたことから調子がよろしくなく、実家である三条邸に宿下がりをされました。
平安時代では帝の周りに穢れを寄せてはいけないということになっておりましたので、病気になった女御は実家で静養させ、出産も穢れであるとして御実家でなさったものなのです。

源氏はとうとう宮を慕う心を抑えきれずに三条の邸に忍び入りました。
それは供の者も連れず、闇にまぎれての道行き。
とても高貴な御方の振る舞いとは思われません。やんごとなき貴族たちが夜出歩くのは常のこととて、野盗などに襲われぬよう、火を焚き、随身を多く従えて大路を牛車でゆくのとは違います。
まかり間違えば妖しのものと切り捨てられても仕方なき無謀さです。
月の隠れた漆黒の道を迷わずに三条邸に辿り着けたのも、恋心のなせる業だったのでしょうか。

宮の元には王命婦(おうみょうぶ)という女房がお仕えしておりました。
宮よりもいくつか年上で源氏が元服する前から心安く接してくれた優しい女官です。
命婦は唯一光る君の恋心を見抜いた人であったかもしれません。
かつて藤壺の宮に光る君との交流は節度を以てすべし、と人知れず進言したのも彼女なのです。
王命婦は誰よりも人の想いに敏感な人だったのでしょう。
惹かれあう源氏の君と日の宮の危うさを危惧していたのが、誰よりこの人なのでした。
その日、命婦はただ一人で三条邸に現れた源氏を詰りました。
「御身がご無事でいらしたのは何よりですが、野盗などに襲われたならば、お主上はいかが思召したでしょう?あなたは国の柱石ともなられる御方。尊い御身なのですよ」
「命婦よ。みながそのように私を祀り上げる。しかし私はみなが期待するようなたいそうな人にはなりえないのだよ」
「何を仰います。光る君ともあろう御方が。目覚ましいお働きと宮中ではもてはやされておりますよ」
「私は必死に勤めて参りました。噂にでも私のことが伝わり、宮さまが私を気にかけてくだされば、思い起こしてくだされば、とひとえに願う一念ゆえでございます」
王命婦はしかと目の前の青年を見つめました。
ああ、この御方は心底宮さまのことを慕っておられるのだ。
命婦は恋にやつれ、思いつめた表情をした源氏の姿に心を動かされました。
否、この人は今宵死ぬ気でここに来たのだと悟ったのです。
たとえ大きな罪とはわかっていても、手を貸さずにはいられませんでした。

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