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紫がたり 令和源氏物語 第二百七十五話 真木柱(六)

 真木柱(六)
 
源氏は玉鬘が右大将の妻となってからは会いに行くのを控えておりました。
姫に会った時にやるせない想いをこぼしてしまうのもみっともないと、せめて頭が冷えるまでと自制していたのです。
何より髭黒のものとなったことを誰よりも恥じているのは姫自身であろうことから、御心を抉るようなことになれば気の毒でしょう。
それでも半月も経つと姫はどうしているかと気になって仕方がなくなりました。
人妻になったこととて、かねてからの目論見通り言い寄ろうかという好色心もあったのかもしれません。
そうして右大将が邸に戻られた後にこっそりと玉鬘姫の元へ渡りました。
姫はこのところさらに鬱々と昼間も寝込んでおり、源氏が来られたということで起き上がって几帳の陰に隠れるようにしぼんでおりました。
しばらくぶりに見る源氏はやはり清々しいまでの美貌で髭黒の右大将とは比べるべきではありませんが、玉鬘はあのように凡庸で無風流な夫を持ったことが悔しくてなりません。
最初のうちは源氏も遠慮しておりましたが、次第に以前のような思慕の念が湧いてきて、気軽に几帳を覗きこみながらあれこれととりとめもなく話をします。
玉鬘は源氏がわざと明るく面白おかしい話をするので、久しぶりに声を上げて笑いました。やつれた面がなまめかしく、可憐な笑みを見て源氏はふっとさびしそうにつぶやきました。
 
おりたちて汲みはみねども渡り川
    人の瀬とはた契らざりしを
(あなたと私は契りを結ぶことはなかったが、黄泉の川を渡る折には私があなたを導いて渡りたかったのですよ。髭黒があなたの宿命とは残念です)
 
玉鬘はその源氏の詠む声が懐かしく、切れ切れに答えました。
 
三瀬河渡らぬさきにいかでなほ
   涙の水脈(みを)の泡と消えなん
(死んで後の旅路まで髭黒と一緒では耐えられません。せめてその三途の川を渡る前に涙の川の水泡となって消えてしまいたいものです)
 
女人は冥府へ下る際に渡る三途の川を初めて契りを交わした殿方に背負われて渡ると言われております。玉鬘は自分を背負うのが髭黒だと思うとそれもまた悲しく、そのまま涙の川に消えてしまいたいと詠んだのです。
「なんとも幼稚なことを。死して誰しもが避けられぬ三途の川ですよ。せめてなりとも御手の先だけでも私が引いてお助けしましょう」
快活に笑う源氏の瞳には艶やかな翳りが帯びております。
「男というものがどういう生き物かよくおわかりになったでしょう。いつか秋の夕べに琴を枕に語らったことを覚えておられますか?私達は誰よりも近くあったのに、私は何もできませんでした。それこそあなたを心から想ってのことですよ。これを真心ととらえるか、みすみすあなたを他の男に盗られたうつけと見るか。あなたの心にはどのように響いているのでしょう?」
玉鬘はかぁ、と頭に血がのぼったように赤面しました。
姫はもう殿方を知らない乙女ではありません。
この目の前の美しい男の魅惑的な誘惑にぐらりと心が揺れるのです。
「まぁ、冗談はさておき。お主上は尚侍の務めは果たされよ、と仰せになっております。出仕するのも気晴らしになると思いますよ」
源氏はさらりとその場の艶な空気を一蹴しました。
こうした捉えどころのない様子もまた女人を惹きつけるのでしょう。
その隔たりに寂しさを感じ、玉鬘は自分が思うよりも源氏のことを慕っていたのだと痛感しました。

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