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紫がたり 令和源氏物語 第六十一話 葵(四)

 葵(四)

六条御息所が悔し涙を流しておられる頃、かの朝顔の姫君も父である式部卿宮(しきぶきょうのみや)と共に桟敷(さじき)から祭見物を楽しんでおられました。
式部卿宮は姫がまったく結婚する意志がないのを常日頃から嘆いておられたので、時折姫と文を交わしている源氏を如何に思し召すか、とそれとなく姫に聞いてみました。
「源氏の君は歳を追うごとに風采の上がる人物だね。あのような御姿を拝見してもお前の心は変わらないのだろうか」
姫は父宮のいわんとするところがよくわかっておられます。
このまま父が亡くなるようなことがあれば、姫一人の力で生きていくのは難しいので、誰かしら頼りになる殿方に縁付かせたいと願っているのでしょう。
「お父様、あの御姿を見て心動かされない女人はおりませんわ。私はあの方を慕っております。しかし男女の契りを交わさない愛というものもありますのよ」
はっきりとした意志を感じた式部卿宮は大きな溜息をひとつついて、それ以上何も言うことはありませんでした。
大任を果たして二条邸に戻った源氏は、使用人から車争いの一件を聞きました。
あの誇り高い貴婦人はどれほど心を傷つけられただろう、と思うだけでいてもたってもいられません。
すぐにその足で六条の邸に向いましたが、斎宮がおられるので、という口実に会ってももらえませんでした。
御息所はこのみじめに打ちひしがれている姿を源氏に見られ、慰められるのも情けないという気持ちもありましたが、今会ってしまえば伊勢へ下ろうという決意も鈍ってしまうような気がして会うことが出来なかったのです。
源氏は謝罪も許してもらえなかったのが、口惜しく、最近訪れていなかったからといってこのような仕打ちはあまりのことよ、と御息所の御心を推し量りましたが、この貴婦人はそのように浅はかな御方ではないのです。
女人の深い心ざまというものをおわかりになるには、君はまだまだ若すぎるのでしょう。
源氏の苛立ちは葵の上へ向かい、葵の上があのようにつんけんしているから従者までもが狼藉を働いたのであろう、と内心八つ当たりしました。しかし、深く思い悩む葵の上の本当の姿を知らない御方。誰あろう、ご自分の行いがこのような悩ましい種を播いていることにお気づきになれないでいるのでした。

翌日源氏はこちら(葵の上)もあちら(御息所)も気を遣ってばかりだ、などと呟きながら、二条邸の西の対を訪れました。
前々からこの日は紫の君と女童達を祭見物に連れて行く約束をしていたのです。
何気なく覗いてみると、紫の君はまた成長されたようです。
しっとりと匂うばかりに美しく、可憐な乙女へと変わりつつあるのでした。
「お兄さま、今日は祭見物に連れて行ってくださるのでしょう?」
邪気のない、輝くような笑顔にこちらもつい笑んでしまいます。
「みなもう支度はできているかね」
「犬君などはもう呆れるほどに大はしゃぎしておりますわ。はしたないこと」
姫の乳母(めのと)・少納言の君はいささか閉口気味に答えます。
「今日は髪削ぎには吉日だったね。私が紫の君の髪を削いであげよう。他の者達は先に出掛けなさい」
手に取った紫の君の髪は豊かで美しく、生い先立派になることでしょう。
源氏は姫の整った顔立ち、額の美しさなど益々宮に似てこられたなぁ、などと感慨もひとしおに、髪を削ぎ終わると、

 はかりなき千尋の底のみるぶさに
    おいゆく末はわれのみぞ見ん
と詠みました。
(深くて測ることのできない千尋の海の底の海松のように、豊かに髪が伸びていく様子を私が見守っていきましょう)

「お兄さま、海は駄目よ。潮が満ちたり引いたりするのは如何にも頼りないわ」
才気の方も宮なみであるよ、と源氏は明るく笑うのでした。

次のお話はこちら・・・


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