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紫がたり 令和源氏物語 第百八十八話 朝顔(六)

 朝顔(六)
 
女五の宮は源氏の訪れをうれしく感じるものの、ご老体であられるので夜更かしは身にこたえるようです。
最初こそ昔がたりを楽しそうになさっていたものですが、ついうとうととなさっておられます。
「どうにも年をとると、眠くて仕方がありません」
そうぼやかれるので、それを潮に源氏は朝顔の姫宮の元を訪れようと座を立とうとすると、わざとらしい咳ばらいが聞こえてくるではありませんか。
「よもやわたくしをお忘れではございませんでしょう?」
その声はなんとまぁ、かの源典侍なのでした。
その昔孫ほどの年齢の源氏と浮名を流して得意満面だったあのおばば殿です。
たしか出家し、女五の宮の弟子になったという噂は聞いておりましたが、まさか生きているとは考えも至りませんでした。
「これは驚きました。お声も昔のままでございますね」
「おほほ。わたくしなどもう老いてしまって」
源氏の御世辞にまんざらでもなさそうに笑っています。
昔からおばば殿であったのに、急に年をとったような物言いが可笑しく、源氏がうっすらと微笑を浮かべると典侍は未だしなを作っております。
呆れる源氏をよそに若々しく作り声をして歌を詠みました。
 
年ふれどこの契こそ忘られぬ
     親の親とかいひし一言
(どれだけ年月がたちましてもこのご縁を忘れることができません。かつてあなたがわたしのことを“おばあさま”と呼んだことを)
 
源氏:身をかへて後も待ちみよこの世にて
           親を忘るる例ありやと
(あの世に生まれ変わって来世で待っていてください。そしてこの世で子が親を忘れることなどありものか確かめられるがいいでしょう)
 
いまだに色めいた感じを滲ませる典侍が薄気味悪く、
「まぁ、またそのうちに昔話でもいたしましょう」
そう源氏は逃げるように座を立ちました。
源典侍には失礼極まりないお話ですが、源氏は、まったく世の中にはこれと役に立たないものばかりが長生きをするものだ、となかば呆れながら密かに溜息をつきました。
それに比べて優れた人たちの命の短いこと、源氏の脳裏にはあの藤壺の入道の艶やかな顔(かんばせ)が思い浮かべられます。
なんとも調子が狂った君ですが、老いさらばえてもなおあのように媚びる典侍を目の当たりにすると、ことさらに朝顔の姫宮を独り身で終わらせてはならぬ。我が妻に、という思いが強くなるのでした。
人の世は儚く短いものなのです。
愛する人と悔いのない時間を過ごすことこそ肝要なのだ、と感じる源氏ですが、今目の前にあるは朝顔の姫宮への恋心ばかり、この女人を得て儚い世も分かち合いたいと願うのです。
紫の上や明石の君を想う隙もないほどに思い詰めているのでした。
 
静かな冬の情景が幻想的な宵です。
源氏は真剣に言葉を尽くして朝顔の姫宮に求婚しました。
しかし姫宮の心は頑なです。
「宣旨を通じてではなく御声を聞かせて下さいませ。それが私を厭うお言葉でも一言お聞かせいただければ諦めがつきますものを」
源氏は深い溜息をつきました。
その様子が労しく姫宮の女房たちも主の心をほぐそうといろいろと申し上げますが、その甲斐もありません。
 
源氏:つれなさを昔にこりぬ心こそ
     人のつらきにそへてつけられ
(あなたが昔から冷淡なのは知っていますが、私が辛いのはそのあなたを懲りずに慕い続けるわが心なのですよ)
 
朝顔:あらためて何かは見えむ人の上に
       かかりと聞きし心変わりを
(他の女人の身の上に起きたあなたの心変わりという悲しい出来事を今さらこの身が知ろうとは思いません)
 
執拗な求婚を疎ましく感じた姫宮のそのストレートな応えに愕然とした源氏は致し方なくこの場は身を引くしかあるまいと諦めました。
「なんともきまり悪いですね。この光源氏がまたふられた、と世に漏れ出ることだけは勘弁してくださいね」
座が白けても、朝顔の姫宮は何も仰いません。
深い溜息をついた源氏は御前を辞去しました。

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