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紫がたり 令和源氏物語 第十七話 夕顔(一)

  夕顔(一)

源氏には今密かに通っているところがあります。
六条に住む貴婦人です。
先の春宮妃でいらしたのですが、不幸なことに彼女が二十歳の時に春宮が身罷ってしまわれました。
皇女を産んでおられたので六条御息所と呼ばれましたが、貴婦人の中の貴婦人と言われるだけあり、手蹟の見事なこと、趣味の良さ、慎み深い教養のある様子などから貴公子達の間では憧れの存在でした。

御息所との出会いは、「女人を知りたければ最高の女人に触れるほうがよい」と貴公子達の仲間うちの誰かが言い出したことからでした。
誰が御息所を射止められるか、などと軽々しいことを言う者もありましたが、源氏は純粋に“最高の女人”と言われる御方はどのような人なのか、と興味を覚えました。
ふと見上げた空に春特有のうららかな霞がうっすらとたなびく様子が美しく、その趣を詠み込んだ歌を御息所に贈りました。
返事は山野の若葉を思わせるような紙の色合いが美しく、仄かに薫る香なども洗練された印象でした。
そしてその手蹟の見事なこと、薄墨で書き捨ててあるようなさりげなさはやはり噂通りです。
それからは季節の折々に文を交わし、交流を深めていきました。

誰よりも高貴な女性であるその人は一体どのような御方なのだろう、藤壺の宮のような方かもしれない、そう思ったこともあるでしょう。
いつしか御息所に憧れを抱いた源氏は堅苦しく文学のご教授をお願い致します、などと通いつめ、御簾越しに物語の良し悪しなどを語り合ったのでした。

「物語の秀逸さなどはどのように思われますか?」
源氏の問いに御息所は少し考えられて、
「そうですね。竹取の翁の話は古典中の古典ですが、『宇津保物語』などはそれをうまく昇華させた作品のように思われます。また文章によって琴を表現するという点では情感豊かな感じですわね」
独自の観点でお話になるのは、そういったものを読みこなす教養の高さが表れて尊敬の念を禁じ得ません。
「御息所はどの物語がお好きでしょうか?」
「やはり『落窪物語』など面白味があると思われます」

『落窪物語』は日本ならではの平安のシンデレラ・ストーリーです。
「たしかに慎ましくも美しい不遇の姫が貴公子に見出されて幸せになる、という話は道徳的ですね。その後夫が継母に復讐をするという展開も爽快というか、溜飲が下がるというものでしょうか」
源氏が評すると、御息所は穏やかに笑われました。
「そうですわね。よく面白いと言われる部分はそこに集約されているようです。わたくしが好もしく思うところは、夫が姫への愛情ゆえに復讐せずにはいられなかったという点と、姫を救い出してからも純情を貫いた姿に感じ入るところがございます」
源氏はなるほど、と頷きました。
世情などをふまえての慧眼は感嘆に値します。
御息所は驚くほど博識で漢文にも通じておられ、とても聡明な御方でした。
時折気の利いた冗談など仰って笑われるお声も上品で、源氏は貴婦人らしい物腰や御簾から見える襲の色目の洒落た有様に魅せられました。
御息所はこの世にも稀なる美しい青年が噂に上るような好色な性質ではなく、至って真面目な様子に好感を持っておられました。
まだ若くはありますが、漢学や異国の諸事情にも通じていて利発なところは、いずれこの御方が国の柱石ともなる逸材であることを物語っています。
御息所は優秀な弟を得たような心持ちで心をこめて知識を教授したのでした。

源氏の御息所に対する恋心は日増しに募るばかりでした。
誇り高く、軽々しく男性に靡くような方ではないとわかっておりましたが、どうにも切なくてやりきれません。
源氏の困難な恋への執着というものはひとえに添うことの出来ない藤壺の宮への想いが根底にあるようです。
いつでも宮のような方を得たい、愛されたいという願いが強く、葵の上に対しても宮のようにうちとけてくれたら、などと内心思っているわけで、宮の代わりなどいるはずもないのですが、新しい女人と出会うと期待せずにはおれないのです。まったく女人にとっては罪な御方なのでございます。

六条御息所は人となりも素晴らしく、思慮深いところがまた好もしく、かといって尊い身分をひけらかすこともない気安さが感じられました。
何より声をあげて笑われるところなどうちとけていられるのが可愛らしく思われ、なんとかしてこの女人を得たいものだと、源氏の君は思い詰めるようになっておりました。

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