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紫がたり 令和源氏物語 第百八十九話 朝顔(七)

 朝顔(七)
 
源氏が去ると女房達はいっせいに姫宮をうるさく責めたてます。
「せっかくの仰せをもったいない。どうしてそのようなつれない仕打ちをなさるのですか?」
「わたくしは誰とも結婚致しません」
「そうは仰いましても、君の庇護が無ければ豊かな暮らしもできませんわ」
「身分に準じた御封はいただいております。裕福な暮らしがしたければ、財力の頼もしい受領の邸にでも勤めるがよい」
姫宮は宣旨をはじめ、女房たちをひとにらみすると毅然と座を立ちました。
 
寝所に移り、物憂く庭を眺める姫宮の横顔はどこか寂しそうです。
人の心に絶対などはありえないし、縛ることもできません。
源氏には誰よりも愛するという紫の上という御方がおられると聞きますが、長年寵愛を得ている女人の身の上にも今回のようなことが起こるのです。
ましてや自分のようなものが北の方に納まったからとて、源氏の浮気心がなくなるとは到底思えないとうなだれる姫宮です。
 
あの最後に詠んだ歌を源氏はどのように聞いただろうか?
まるで男心を非難しているように思われたかもしれない。
 
本当は君を慕っているからこそ、心変わりなどがあれば耐えられないのだ、という気持ちは姫宮の胸の裡に生涯納められることとなるのでしょう。
姫宮は長く神に仕えて仏道からは縁遠くなっておられましたので、これからは御仏に仕えてひっそりと暮らしたいと考えております。
かといってすぐに出家などすれば源氏の求婚を厭うてのことと取沙汰されて、どちらも気まずくなるでしょう。
このまま事態が収束するのを待つのみと心を鎮めるのでした。
 
姫宮の心を知らぬ源氏はあまりのつれなさに恨みの念ばかりが込み上げてきます。
桃園宮へ向かう道すがらは希望に胸を膨らませていたものの、夜が明ける前に帰宅する道行きは何とも情けない気持ちでいっぱいです。
身分重いこの年になっての浮気沙汰はあまりみっともよいものではありません。
ここまできては姫と結婚しなければ後に引けないくらい世に知られてしまいました。
どうにかして姫宮と結婚しなければ収まりがつかぬ、と源氏は依怙地になり、愛をもっての結婚という当初の目的から逸脱してもはや執念を燃やすように姫宮を想うのでした。
 
 
源氏の執念は執拗で、いまだにどうしたら姫を口説けるかとそればかり考えて、また御所での宿直ばかりを続けております。
たまに二条邸にいても心ここにあらずといった状態で、紫の上がどのような目で見ているかなどは考えも及ばないようでした。
紫の上は長年心が通じていたと思っていた源氏の変わりようをなかば諦めておりましたが、隣にいるのに他の女人を想う夫の姿を見るのは辛いものです。
このような話は世の中ではよくあることなのだ、と納得しようにもわりきれないことはあるでしょう。
我知らずこぼれ落ちる涙に、まだ源氏を愛する気持ちがあったのかと己の心に驚くばかりです。
紫の上が源氏の為に涙を流したことは幾度もありますが、真の愛の為に流した涙はこれが初めてです。
そしてその涙とともに大切なものまで零れ落ちて、もう二度とそれが取り戻されることがないということを源氏は知らないのです。
 
はたり、はたりと涙がこぼれる音に源氏は傍らの紫の上の存在に気がつきました。
それはまるで夢から醒めたように現実に引き戻されました。
「どうしたのだね。そのように泣かれるなんて」
源氏が抱き寄せても紫の上はただ黙って涙を流し続けるばかりです。
「最近御所につめていたのは女院を亡くされたお主上が心細そうにしているのを放っておけないからだよ。私が朝顔の姫に手紙を差し上げているのをあなたは何か勘違いをされているのではないのかい?なんでもない消息なのに」
源氏は取り繕っておりますが、嘘か真か本当のところはその声音に表れているのです。
事ここに至り、源氏はどれだけ自分の足が地に着いていなかったかを自覚したのです。紫の上の様子を見て、儚い世であるから姫宮と、などと思っていたことが、最愛の者との関係が危うくなるようでは本末転倒であると思い至ったようでした。
しかし、零れた水は元の器に戻りはしない、ということを源氏は失念しているのでしょう。女人の気持ちも同じなのです。

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