傷の癒し方を知らないから。

私には見えない汚れを指して、母が言う。

「汚れが残っている」と。

私は何度目かわからない「見えないんだって」を言いながら指された場所を拭く。汚れの存在も見えてはいないのに。

いい加減、目の前にいるのが自分と同じ視力を持った人間ではなく、自分よりはるかに目の悪い視覚障害者だと気づいてほしい。十数年言い続けて、それでもまだ「見えない」と言い続けなければ伝わらないのか。何のために親をやってきたんだ。経験が活かされていない。

私の目が悪くて危なっかしいからといくつかの実験操作をやらせなかった、卒業研究の指導教官の先生の方が、まだ配慮してくれているなんて、笑えてくる。こんな風にひきあいに出している時点で、卒業研究にもいい思い出は少ないのだが。

こういうやり取りをネットに晒し上げて、私は傷口を癒している。文章にしてしまえば、何だかすっとするからだ。というか、対母親なんか、記事のネタだと思わなきゃやってられない。

母のことは、思い知るまで「見えないんだって」と言い続けてわからせるのが先か、私がお金を貯めて実家を出て行くのが先か、どちらだろうか、くらいに思っている。

見えないものは見えないと言う。

できないことはできないと言う。

障害をオープンにして働く上で大事なことだ。できないことを「できる」と言ってしまって困るのは自分だ。

「できないというのは甘えだ」なんて声は全部無視しよう。どう頑張っても私の視力は1.0にはならないのだから。

発達障害だから、アルビノだから、と何かを免除されるのが嬉しくて、でも同時に何かが損なわれていく気もしていた。私は人並みじゃないのか、と。

免除されるのは、悪いことではない。合理的配慮の結果だから、ありがたく受け取っておくのがいい。そして、本音を言えば、「やらなくていいよ」と言われてやることが減る時、身が軽くなった気もしていた。学校の先生に、そう言われた時。私はたしかにラッキーと思っていた。

でもそれって、本当にできないことだった?

そんな問いに、私は答えられなかった。

先生が、雁屋さんは目が悪いからこれができないと判断したなら、それでいいじゃないか。できないことをやらされていたわけじゃないのだから。例えできることを免除されていたとしたって、それでいいじゃないか。

そう、本気で思っていたし、何かをやらなくていい理由ができるなら、それは何だってよかった。真面目と評価されることの多い私だけど、それくらいには怠惰だった。

発達障害だから、コミュニケーションが苦手。

そのことを伝えたら、母に、「黙っていればいいでしょう」と言われた。感じたのは、怒りだった。見えない汚れは指差し続けるくせに、こんなところで理解ある振りをするのか。理解なんて、していないくせに。

発達障害を理解していたら「黙っていればいいでしょう」なんて言わない。黙っていられないし、必要最低限のことを伝えるのでもコミュニケーションが上手くないのがこの障害なのだ。黙っているだけで解決するならそうしている。

初めて、免除されるだけではいけないのだと思った。喋ることを免除されて、そうして喋らずに過ごしてしまえば、一時は楽かもしれない。喋らずにいられれば、だが。でも、本当に話したい相手と話せなくなる。私はそれを経験した。何も、話せなくなるのだ。

だから、発達障害だからコミュニケーションを免除するのでは、いけないらしい。でもどうして欲しいかはまだわからない。

執筆のための資料代にさせていただきます。