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にせものとほんもの

─「にせもの」に囲まれて生きてきたような気がする。

と、思いはじめたのはいつの頃だったのか、
裕福ではない家に暮らしていても、高度経済成長期に生まれて青春時代はバブル期だったので、一億総中流の気分で育ちました。

中学生の時に県内にTDLができて、友だちにそこは「夢の国」なんだって教えてもらいました。
でも、わたしにとってパーク内の建物はどんなに綺麗でもどこか作りもので、行ったこともないヨーロッパの街並みを想像すると何となく軽薄で、シンデレラ城はお城というよりは巨大なオブジェみたいに感じました。

例えば、果汁が1%しか入ってないのに、ちゃんとみかんやぶどうの味がするジュースとか、一体何を飲まされてるんだろって思ったのは結構大きくなってからだったと思います。
母はあんまりそういうことを気にしない人だったから、ジュースに限らずわたしは工業製品的な食べもので大きくなったのだけど、自分が子育てを始めるまではそこに何の疑問も持たなかったし、家庭によってはわたしが食べてきたようなものは一切子どもに食べさせない家もあるのだなんて、考えたこともありませんでした。

食べものに関して無頓着な一方で、わたしの世代はお金持ちではないのに、お金持ち風の振る舞いや買い物が好きで、執着の薄いわたしでさえ知らず知らずのうちに流されていたように思います。

けれど、それはあくまでも「それっぽい」というだけで、わたし達はどんなにブランドを身に付けようと、高い車を買おうと、最新家電を買おうと、どう頑張っても庶民で、ローンで買った新築のマンションは小綺麗で気に入っていたけど、玄関の狭さはそのままわたし達の生活水準のような気がして、出入りする毎にそれを思い知らされるのでした。
あれは、ブルジョワごっこだったのかもしれません。

ただ最近思うのは、わたしの若い頃はただ「にせもの」だっただけで、物自体は存在していたのです。
果汁1%のジュースも、プラスチックの観葉植物も、木目調の壁紙も、絹に見える合成繊維も、何かを真似しているにせものとはいえ、物自体は存在していました。

いまの「にせもの」はそれすらなくなってきていますよね。
南の国っぽい壁の前でインスタ映えする写真を撮るみたいなことが、もはや抵抗なく行われるようになりました。

世の中の「にせもの度」は加速度的にアップしていて、ほんもの/にせものではなく、リアル/バーチャルの違いになってきています。

インスタの中だけ華やかな人、VRの世界がリアルより大切な人、いつか話し相手も人ではなくAIになるのかもしれません。

それが悪いことと云うつもりはなくて、人それぞれ生きる場所があってもいいんだとは思います。だって、リアルの世界はとても生きにくいから。

だけど、そのバーチャルに囲まれた世界で生きていると、そこに馴染めずに少しずつ病んでいく人もまた増えていくように思います。
生きていくリアルな感覚を喪失すると、バランスを失ってしまう人は必ず一定数いると思うのです。

そして、いちどほんものを手放してしまうと、たとえば果汁100%のストレートジュース(濃縮還元じゃないやつね)が高価であるように、ほんものを手に入れることがとても贅沢なことになってしまいます。

今、真っ当な素材で作られたものはどれも高価で、天然素材の生地の服や、合板を使わない天然木の家具や、シンプルな材料のお菓子、は庶民の手の届きにくいものになってしまいました。

それと同様に、いちどリアルを手放してしまったら、リアルな体験は全て、とても高価なものになってしまうんじゃないかということを危惧しています。

例えば人と直接会って話すことや、紙の本を買うこと(あ、小説を読むのはバーチャルと思えなくて、わたしの中で読書は体験なんだけど、机の上で考えすぎて病む人もいるから賛否あるかも)、料理をすること、買い物に出かけること、公園で遊ぶこと、今はまだ当たり前にできることが、贅沢でできないことになってしまったら、バランスを崩しかねないと思うのです。

だから、リアルは手放しちゃいけないんです。
にせものよりほんものが素敵なように、バーチャルよりリアルな体験の方が豊かだから。キャンプがブームで、焚き火がしたくなるのは、そこにリアルな手応えが感じられるからじゃないのかな。

これから先どんな世界になるかわからないけど、お財布が許せばにせものよりほんものを選びたいし、バーチャルよりリアルを、選択のひとつの基準としようかな。

今はまだ選択が許される世界なのだから。

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