見出し画像

「お菓子な絵本」33.アルヴィン風の幻想曲

33. アルヴィン風の幻想曲



 ウィーン楽友協会。クラシック音楽のエルドラドといわれ、様々な伝説や謎に包まれた国際的なコンサートホールの殿堂である。

 かつてウィーンにおけるコンサートの殆どは王侯貴族の手中にあったが、より多くの音楽を庶民にも提供すべく、1812年に設立された楽友協会の役割は、市民の音楽への関心を飛躍的に高めることとなる。専門的な音楽教育機関として、また、貴重な資料の管理も目的とされた。
 当時はフランス革命の恐怖政治が記憶に新しく、オーストリア帝国においても、市民の行動に当局は常に目を光らせていた。協会の設立にあたっても、当初は市民からの提唱ということで難儀するが、皇帝の弟であり、ベートーヴェンにも師事していたアマチュア音楽家のルドルフ大公がのちに後援者となり、正式に認可される運びとなる。

 以来、数々の重要作品の初演を飾り──シュトラウス、ブラームス、ブルックナー、マーラーと、多くは作曲者自らの指揮により──、最高レベルの音楽を世界の愛好家に贈り続けてきた。

 今日見られる、ギリシア風ルネサンス様式の劇場は、1870年に建造されたものである。
 2000人級の大ホールは箱形の構造で、板張りの床下と天井裏の空間が、弦楽器の内部であるかのような共鳴胴の役割りを果たし、加えて華麗な装飾、金箔貼りの絢爛豪華な色調、歴史に名を残す偉大な作曲家の大理石の胸像群、梁を支える女性の柱、自然光の入る窓といったすべての条件が組み合わさって偶然に生まれた──専門家によって計算されたのではなく──、世界屈指の「奇跡の音響」を誇っている。
 ウィーン・フィルの本拠地でもあり、元旦に大ホールで催されるニューイヤーコンサートの模様は、国立歌劇場バレエによる典雅な舞踏と共に全世界に衛星中継され、10億人もの音楽ファンを毎年楽しませてくれる。

 アルヴィン・シュヴァルツのリサイタルは、ここ楽友協会の小ホール、ブラームス・ザールでまもなく開催されようとしていた。

 地球上で最も美しく、最も豪華で、最も晴れがましい室内楽ホール、「小さな宝石箱」と称されるブラームス・ザールは、クララ・シューマンのピアノにより、こけら落としがなされた。
 これは夫君亡き後のクララを、生涯独身を貫いて精神的に支え続けたブラームスの提言によるものであった。ブラームス自身も自らピアノを弾き、自作品の多くをここで初演している。こうした経緯から、このホールにはのちにブラームスの名が冠せられ、正面玄関から階段を上った踊り場にはクララの胸像が、そして2階ホールにはブラームスの胸像が飾られている(シューマンは大ホールに居る)。

 アルヴィンの今夜のリサイタル・プログラムは次のとおりとなっていた。

 J.S.バッハ《パルティータ》第1番 変ロ長調
 
 ハイドン  ソナタ 第62番 変ホ長調 作品52

 シューマン 幻想曲 ハ長調 作品17

 このホールは建造当初はサロンのスタイルで、客席の中央に舞台が据えられていた。ギリシア神殿風の切妻屋根の天井にはガラス窓が大きくとられ、マチネの公演では舞台に明るい陽光がスポットライトのごとく差し込んでいたことだろう。
 のちに音響を配慮して、舞台は一般的な劇場のように正面奥へと改築された。その為、舞台上には劇場の外観と同色の上品なサーモンピンク、イオニア式の二本の柱が残されたままになっている。舞台両脇に出入り口がないため、出演者は従来の下手側からではなく、正面からの登場となる。

 一般的な劇場における公演では、演奏中は客席の照明が落とされるか、低めに抑えられ、逆に舞台は明るく照らされ際立つことで、奏者と聴衆の世界は完全に隔てられるもの。しかしここブラームス・ザールでは舞台は高くはなっているものの、こうした客席との仕切りがない構造上、両者が同じ空間を共有する形となる。そして開演時でも客席、舞台、共に壁面に連なるシャンデリアの照明は、落とされない。

 
 明るく、きらびやかなままの会場の、舞台の正面に燕尾服に身を包んだアルヴィン・シュヴァルツが登場し、聴衆の温かい拍手に迎えられた。
 アルヴィンの飾り気のない物腰と、上品な白い蝶ネクタイが、年齢を重ねても、模範的好青年といったデビュー当時と変わらぬ初々しさを物語っている。まったくもってこの人ほど白の蝶ネクタイが似合うピアニストは他に類を見ないであろう。しかしながら古代ギリシアの神殿を模した劇場の、二本の柱の間に彼が立ったその姿は、堂々たる王の風格も備えているかのようだった。

 丁寧に会釈し、背筋をすっと伸ばした美しい姿勢でピアノに向き合ったかと思いきや、すぐさまパルティータの輝かしい旋律が流れ出す。アルヴィンが、まるで呼吸のように自然な態度でピアノに向かうので、聴衆は彼の描き出す音の世界にいきなり引き込まれる。

 アルヴィンが普段から好んで選ぶピアノ、ベーゼンドルファーも非常に豊かな音で彼に応える。ペダルを多用しないシンプルな音質の古典派の音楽というのに、なんときらびやかに反響するのであろうか。燐と芯がとおっていながら、なんという夢のように美しい響きが紡ぎだされるのであろうか。

 6つの舞曲で構成されるパルティータの終曲は、12/8拍子のジーグ。交差する左手の跳躍が織り成す、軽快でありながらも優雅な旋律。まさに芸術の奇跡といえるこの曲に、完璧な技巧と正確なリズムで命が吹き込まれ、一気に山場を迎える頃には観客の心はもはや完全に日常生活を忘れ、異次元の世界へと連れ去られていた。

 曲が終わり、大きな拍手によっていったんは現実の空間が戻ってくるが、アルヴィンは袖には下がらずに即、次のプログラム、ハイドンのソナタへと聴衆を誘う。
 明快な和音に始まる第1主題と、愛らしく繊細な第2主題、巧みな転調、高度な技巧を駆使した多彩なピアニズム。ハイドン最後のピアノソナタでありながら、忘れ難き青春を思い起こされるような晴れやかさや切なさが、実に爽やかに、気持ち良く表現されてゆく。

 アルヴィン・シュヴァルツは高度な技術を持ちながら、自然で味わい深い、整った演奏のできる数少ないピアニストの一人である。いわゆる超絶技巧や、鍵盤に叩き付けられる激しい情熱といった、外面的な華やかさにはいっさい捕われず、聴衆の反応も意識せず、あくまでも自分と音楽の対話のみ。その比類なき音色の美しさは、現実世界のレベルを遙かに超えていた。

 おかげで前半の演目が終了する頃には、すべての聴衆がアルヴィンのピアノによる洗礼を受け、心がすっかり清められる。
 そして休憩をはさんだ後半、メインの曲にいたっては、聴衆は心がまっさらな状態で聴くことになる。それがアルヴィン流のやり方で、といっても決して意図されたものではなく、コンサートという特異な環境において自然に生み出される状況なのであった。

 そこで何が起こるか? すべてはアルヴィンの腕にかかっていた。

〈フロレスタンとオイゼビウスの大ソナタ、ベートーヴェン記念碑に捧げるオーボレン〉これは今夜のメイン、シューマンの〈幻想曲〉に当初つけられる予定であったタイトルである。
 オーボレンとはギリシア語の、小さな貨幣の意味で、ささやかな寄付金といったニュアンス。
 フロレスタンとオイゼビウスとは、シューマン自身の性格の二面性を表わす彼のペンネームである。フロレスタンは明るく積極的な面を、オイゼビウスは優しくロマン的な面を。しかしこの長いタイトルは曲が完成したときにすべて取り除かれ、最終的にはただ〈幻想曲〉となり、尊敬し合う友人のフランツ・リストに献呈された。

「ロマン派音楽のマグナカルタ」とも称されるほどに、この曲において、シューマンはそれまで誰も到達し得なかった新たなる境地を開拓した。
 独自の幻想性と即興性、後の作曲家にも影響を与えゆく調性の曖昧さ、古典的様式にとらわれない自由な形式でありながら、各楽章は主題が密接に関連し、統一感が保たれている。

 数多くのピアノ作品を残したシューマンの最高傑作、ロマン派きっての名曲である。

 当時逢うことも、文通すらも許されなかった恋人クララに対する深い愛情と悲しみ──シューマンの師にしてクララの父親のヴィーク氏から「近づいたら射殺」宣言まで出ていた──。想いを断ち切らねばならないという絶望の淵において、作曲だけが恋人に気持ちを伝えられる唯一の表現手段であったのだ。

 会場の照明が微妙に暗く調整され、アルヴィン・シュヴァルツは、今度はピアノの前で感情の高まりを抑えようとするかのように深く集中してから、堂々たる左手の分散和音にのせて、右手のオクターヴによる情感に満ちた主題を高らかに歌い奏で始めた。作曲家の指示通り、どこまでも幻想的に、しかも情熱的に。

 アルヴィンは己の感情のすべてをシューマンの感情、つまり幻想曲自体が持つ感情に委ねていた。そうすることで、ピアニスト、作曲家、そして音楽そのものがひとつになり、誰もが共感できる世界が創り出されるのである。

 例えばの話。かつてのルドルフ・ベッカーのように、わたしはここにいる! さあ、わたしの演奏を聴きたまえ! といった調子で、ピアニスト個人の強い主張が全面に押し出された演奏では、観客は圧倒され、奏者から多大なエネルギーを与えられる(押しつけられる)。それもまた、聴衆受けする演奏スタイルの一種ではあるが、確固とした人生観や、自身の深い価値観にこだわらない人間ほど、こうした受け身の状態を好む傾向にあるようだ。

 アルヴィン・シュヴァルツの演奏を好んで聴く者は、これとはまったく事情が異なってくる。
 彼らは自分自身を見つめるために劇場へと足を運ぶ。アルヴィンの、曲本来の美しさを浮き彫りにした清らかな演奏により、聴衆はいっさいの雑念が追い払われ、心を白紙状態に戻される。その上で、自分のこれまでの人生、大切な思い出や未来の希望、夢や憧れといったものが音楽に重ね合わされていく。聴衆は忘れかけていた己の深い想いを胸に抱き、自らのエネルギーで満たされていくことができるのだ。
 奏者のエネルギーをそのまま分け与えるのではなく、聴衆の潜在的な能力や才能を引き出すきっかけを創る。これがアルヴィン風の演奏であり、人々が彼を自分の分身のように深く静かに愛する理由であった。

 幻想曲のクライマックス。寄せては引く静かな波のように詩的な幻想の世界が展開されてゆき、遙かな憧れと、確かな愛に満ちあふれる感情が徐々に高まり、やがて美しい安らぎとともに曲は終わりを告げる。

 きらめきながら消えゆく、明け方の星のように。




34.「風の唄が聞こえる」に 続く……




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?