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「見かけ」のダイバーシティと性表現

私の団体で開催したLGBTQに関するセミナーで、感想に「登壇者が男性、女性で偏っていたこと」についてご意見をいただいたことがある。

なるほど、そうかと思い、それでもなんとなく腑に落ちない感覚だった。
もやもやと、自分の痛いところをくすぐられるような違和感と。

最近、このような指摘はダイバーシティの界隈でよくみられる。

過去に私が登壇した医師のキャリアに関するセミナーでは、4名いた登壇者全員が男性(ジェンダーは男性だと思われるが、セクシュアリティについては推測はできても確実なことは分からない)で、「キャリアの話をするのに女性が不在」であることにコメントがあった。

広い意味合いでは議員立候補におけるクォーター制の議論にも関連するだろうし、「内閣が男性ばかり」とか、「管理職に男性しかいない」とかよく言われるのもそうかもしれない。一方でダイバーシティや男女共同参画の分野となると、「女性」というジェンダーがしばしば求められたり、あるいは「男性」というジェンダーが活動の足枷になることもある。

気になったのは、私は自分のセクシュアリティを、公に開示していないということだ。
視聴いただいた方は、登壇者の性表現(容姿や声、指名など)を見て、男性が○名、女性が○名と認識し、男女のバランスについて違和感を抱いたのだろう。
それでは私がトランスジェンダーだったら?トランスヴェスタイトだったら? 特にイベント登壇にあたって、その可能性は肯定もしていないし否定もしていないのだけれど。
開示されたセクシュアリティに多様性がなければ、その集団がダイバーシティを語ることは難しいのだろうか?

カミングアウトー私は男性である

ここで改めて、カミングアウトしたいと思う。
私は男性である。
驚かれる人はいるだろうか?
自分を男性と思い、性表現としては主に男性だけど、まあ中性的な性表現も時によって好きだ。ネットで誰でも調べられる、医籍登録も男性とされている。
ただ、この先の人生の中で、一生男性と思うかは、今の自分には分からない。セクシュアリティは変わるものだから、ずっと一緒かもしれないし、これから先のことは誰にも分からない。
今に至るまでの自分の人生のほとんどの瞬間で、社会通念上の「男性」と思うことに違和感がなかった。ただそれだけのことだ。

ダイバーシティの本質は個人個人が異なるということ

表面で見えているジェンダーがどうであれ、それぞれの人は違う環境に生まれ育ち、異なった経験と価値観を持ち、異なった人生を生きている。その一部は重なったり、似ていたりするかもしれないけど、本質的にみんな違う存在だ。違う存在の人が、それぞれの立場や思いを持って言葉を紡ぎ、人に伝える機会は、そのままで尊重されてほしいと思う。

私がイベントに登壇するときは「所属」や「職種」、「支援者」としてのラベルを背負っていることが多い。何かを伝える時に、自分のポジションをはっきりさせることでメッセージを明確にすることが目的である。

混同してはいけないのは、クォーター制や要職への登用などは、社会のジェンダー不平等が機会の不均衡に根深く影響している社会課題であり、ジェンダーに基づく是正のアイデアは必要だと考えている。
ただし、私的なイベントでの性表現の多様性を確保する必要があるかは、イベントが伝えたいメッセージや受け手との間の問題だろう。

でも、と思う。例えば、準備しているときに、LGBTQについて語る登壇者が全員「男性」「女性」どちらかの性表現だったとしたら、一瞬でも迷わないだろうか。男女のバランスを取ろうとしてしまう自分が、もしかしたらいたかもしれない。テレビで女性の育児休暇について考える討論会があったとして、「男性」だけが登壇していたとしたら、果たしてそれは適切な議論の場だと言えるだろうか?
きっと迷ったり、あるいは違和感を感じる自分がいたはずで、本質的に何が違うのかと問われたら、まだ明確には答えられないように思う。

性表現としてのジェンダーの多様性と、本質的な多様性との違いには、きっとこれからも悩み続けるだろう。それでも、自分が伝えたいメッセージをどうやったら受け取る方にまっすぐ届けられるだろうか。感じる立場として、どのようなメッセージを受け取るのだろうか。そしてそのためのアンテナについて。これからも考えていきたいと思う。

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