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聖地エルサレムにて【イスラエル・パレスチナ旅行記1】

こんにちは、yukiです。

今回から、
イスラエルとパレスチナの旅行記を
書いていこうと思います。

現在のイスラエル・パレスチナの惨状に、
とても心を痛めています。

「このタイミングで
 過去の旅行記を書くのはどうなんだ?」

とも考えました。


しかし、特にパレスチナ自治区で、
“日本の報道では分からない日常”
を見てきたのです。

それを伝えることには
意義があると思うので、
書かせていただくことにします。

政治的なことについて
意見を述べるつもりはありません。

中立である旅人の視点から、
見聞きしたことを書いていきます。

一気に書き切ってしまおうと思うので、
6日間連続で投稿していく予定です。

お時間ある時に
ご覧いただけると嬉しいです。

(※この記事は、2016年の旅を
 “旅行記”としてまとめたものです)



イスラエル入国問題


夜が明ける前、乗っていた飛行機は
アンマン(ヨルダン)の空港に着陸しました。

空港ロビーで夜明けを待ち、
明るくなってから、
バスに乗って市内へ向かいます。

黄土色の家々、乾燥した大地…

想像していたヨルダンそのもの。

バスターミナルに着いたら、
そのままイスラエルへ向かう
バスに乗り換えます。

ルートとしては、
イスラエルとパレスチナを巡ってから
ヨルダンに戻り、船でエジプトへ進む予定。

なぜそんな面倒なことをするかというと、
いろいろ理由はあるのですが、

もっとも重大なのは

“イスラエル入国問題”

があるからです。


イスラエルは、
周辺のアラブ諸国と対立しています。

「イスラエルに入国した人は、
 旅行者であろうと来ないでください」

って国がいくつもあるのです。

これから行く予定のスーダンも、
イスラエルへ行ったことがバレると
入れてもらえない国。

一方で、
観光客を逃したくないイスラエルは、

「入国時にスタンプを押さないようにして、
 旅行した痕跡を残さないようにしますよ」

って対策を打ち出しています。

しかし空港や国境によっては、
押されてしまうこともあるのだとか。


まとめると、
僕にとっては、

「ほぼ確実にスタンプなしで入国・出国できて、
 エジプトビザ発給の痕跡も残らず、
 行きたいところを最安で巡れるルート」

というのが、
アンマン←→イスラエル
のルートだったのです。


さて、
バスは黄土色の大地を走り、
国境に到着しました。

ヨルダンの出国はスムーズに済みました。
(出国税が必要なはずなのに、
 「日本人は免除」って言われました。
 なぜに?でもラッキー!)

ヨルダン川に架かる
キングフセイン橋を抜けて、
イスラエル側に入ります。

入国審査では、

「スタンプ押さないでください」

の一言を添えて
パスポートを差し出しました。

入国審査官は、美しいお姉さん。

パラパラとパスポートをめくり、
あるページで手を止めます。

そして苦笑いしながら言いました。

「・・・あなた、
 イランに行ったのね?」

あちゃー、
やっぱり問題あり?

イランも、イスラエルと対立しています。

先ほどの例のごとく、
イスラエルに入国したことがバレると
イランには入れてもらえません。

でも、その逆は問題なかったはず。

窓口でいろいろ質問されたあと、

「ちょっとこちらへ来て。」

と、待合室のようなところへ連れて行かれます。

「ここでしばらく待っててちょうだい」

5分くらい座っていると、
別の男性がやってきて、

「イランに行った目的は?」
「どこに行って、どのくらい滞在した?」
「知り合いはいるのか、
 連絡先を知っている人は?」

などなどたくさんの質問を浴びせられます。

「しばらく待ってなさい」


・・・待つこと2時間。

また別の審査官がやってきました。

5分くらい、
先ほどと同じような質問をされます。

「しばらく待ってなさい」

またかい!
入国できるか不安になってきます。

さらに1時間待ったころ、

「入国を許可します」

と言われました。

アハハ、3時間も何やってたんだろう…
とにかく入国できて良かった。

聖地エルサレム


イスラエルに入国したバスは、
ヨルダンからあまり変わり映えのしない
乾燥した大地を走っていきます。

そしてあっという間に
エルサレムに到着しました。

エルサレム…
輝かしい響きを持つ名前。

エルサレムは大きな街ですが、
最重要な地区は、
わずか1km四方ほどに収まる「旧市街」
です。

旧市街は周囲を城壁に囲まれ、
東西南北に複数ある“門”から内部に入ります。

門をくぐり、
おそるおそる中に入ると、
その“密度”に圧倒されました。

家々、お店、宗教施設が、
所狭しと立ち並んでいるのです。

「本当にエルサレムに来てしまった…」

感慨深く、道を進んでいきます。


エルサレムは、
3つの巨大な宗教の聖地です。

すなわち、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。


ユダヤ教の聖地である理由は、
古代イスラエル王国の中心地であり、
エルサレム神殿の建っていた場所であるから。

キリスト教の聖地である理由は、
イエス・キリストが磔にされ、
復活した場所であるから。

イスラム教の聖地である理由は、
創始者ムハンマドが天に昇り
神から律法を授かった場所であるから。


3つの宗教の最大級の聖地が、
この狭い城壁の中に詰まっているのです。


旧市街の中は、

  • ユダヤ人

  • キリスト教徒

  • イスラム教徒

  • アルメニア人

が住む4つの区画に分けられています。

(なぜアルメニア人?ということですが、
 アルメニアは世界で初めて
 キリスト教を国教化した国なのです。
 古くからこの地へ訪問・移住してきました)


バザールのようなイスラム教徒区画を歩いていると、
とつぜんユダヤ人の区画に入り、
雰囲気がガラッと変わって驚かされます。

こんなにも雰囲気が違うものなのか。


嘆きの壁、ユダヤ人の歴史


このとき泊まった宿は、
「岩のドーム」の目の前。

立地は抜群ですが、
古くて狭くて日当たりの悪い、
洞窟のような宿でした。

たぶん、この旧市街の家って、
大体こんな感じなんだろうな。


宿に荷物を置いて、
ふたたび旧市街を歩いてみます。

まずは「嘆きの壁」へ。

「嘆きの壁」は、ユダヤ教の聖地です。

この壁は、かつて破壊された
「エルサレム神殿」の西壁の遺構

なのでユダヤ人は、
「西の壁(Western Wall)」と呼びます。

この場所にはユダヤ人が集まり、
朝晩問わず、祈りを捧げているのです。

“嘆き”という名前の由来は、
神殿の破壊を嘆くユダヤ人からとも、
石の間に生える草から夜露が滴る様子が
泣いているように見えるからとも言われます。

ユダヤ人の方々は、
壁に額をつけたり、キスをしたり、
ペコペコと素早くお辞儀をしたり、
様々な祈り方をされていました。

歌を歌う人たちもいれば、
聖典を音読している人も。


また、漆黒の衣服にシルクハット、
もみあげを長く伸ばした人々も多いです。

彼らは、ユダヤ教の研究に命を捧げる、
“超正統派”と呼ばれるユダヤ教徒。



ここで、かなり大まかにですが、
イスラエルとパレスチナの
お話をしたいと思います。



・・・かつて、紀元前1000年頃、
ここパレスチナの地にはユダヤ人が住み、
イスラエル王国を築いていました。

かの有名な、
ダビデ王ソロモン王が君臨した時代です。

王国は大いに繁栄しましたが、
内部分裂と他国の攻撃により滅び、
ユダヤ人たちは“バビロン捕囚”を経験します。

一人残らずバビロンに強制移住させられ、
働かされることになったのです。


やがて解放されたユダヤ人は、
エルサレムに帰還して王国を再建しました。

しかし今度は、
ローマ帝国により滅ぼされてしまいます。

パレスチナの地を追われたユダヤ人は
世界各地に散っていったのです(ディアスポラ)。

(その後のエルサレムは、
 キリスト教徒とイスラム教徒の間で
 何度か奪い合いが行われました)


さて、世界中に離散したユダヤ人は、
その勤勉さと才能により富を手にした一方、
差別や迫害を受け続けました。

「何で私たちはこんな目に
 遭わなければならないんだ…」

ユダヤ人にとって、
かつて追われたパレスチナの地は、
神から与えられた“約束の地”なのです。

そこに住めないなんておかしい…!

そう思ったユダヤ人の間で、

「約束の地にユダヤ人国家を作ろう」

という動きが起こっていきます。
(シオニズム運動)

第一次世界大戦中
イギリスはユダヤ人大富豪に対して、

「パレスチナにユダヤ人国家を
 建設することを支持します」

と声明を出すことで、
資金調達をしました(バルフォア宣言)。

同時にイギリスは、
アラブ人の協力を得るために
「アラブの独立を約束する」
と声明を出し(フセイン・マクマホン協定)、

さらにはフランスと
「パレスチナは私たちで分割しようね」
とコッソリ約束します(サイクス・ピコ協定)。


やってることが本当にヤバすぎる…

これがいわゆる「三枚舌外交」で、
大混乱を引き起こす
きっかけとなるのです。

そして第二次世界大戦後、
ナチスの虐殺から生き延びた人々をはじめ、
世界中のユダヤ人が一挙に
パレスチナへ移住してきました。

しかしこの地には、
すでに600年以上にわたって
アラブ人が暮らしている
のです。

それぞれの宗教が、
それぞれの信念のもと、
この地を手にしようとしている…

当然、争いは避けられませんでした。

イギリスは、
もうお手上げで何もできません。

パレスチナは国連によって
“分割”されることになりました。

その決議は、

「パレスチナをユダヤ人とアラブ人に分け、
 56.5%の土地をユダヤ人、
 43.5%をアラブ人のものとする」

というもの。

こうして、
半分以上の土地を手にしたユダヤ人は、
イスラエルの建国を宣言します。


当然ながら、アラブ諸国は、

「住んでいたアラブ人を押し退けて
 無理やり建国するなんて、
 あんまりじゃないか!」

と反発し、イスラエルを攻撃。
第一次中東戦争が起こりました。


しかし驚くべきことに、
建国間もないイスラエルは、
戦争に勝利した
のです。

アメリカやイギリスといった大国が、
イスラエルを援助したためでした。


このイスラエル建国によって、
もともと住んでいた70万人以上のアラブ人が、
故郷と家を失いパレスチナ難民となってしまいます。

聖地エルサレムは「国際管理都市」となったものの、
その後イスラエルが占領・併合しました。

それからというもの、
ユダヤ人とアラブ人の厳しい対立が
現在まで続いているのです。


3つの宗教の聖地


「嘆きの壁」を見学したつぎに、
イスラム教の聖地、
「岩のドーム」にも行ってみました。

「神殿の丘」と呼ばれる丘に建てられています。

異教徒は中に入れません。

この「神殿の丘」は、皮肉にも、
「エルサレム神殿」があった場所。
(その端っこが、「嘆きの壁」です)

当然、ユダヤ人は、
この丘を手にしたいですよね…

このエルサレム旧市街は、
本当にギリギリのバランスを保って、
3つの宗教が共存しているのを感じます。

「神殿の丘」の近くからは、
ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」
が伸びています。

この道は、イエス・キリストが、
十字架を背負って、
「ゴルゴダの丘」まで歩かされた道

終点にある「ゴルゴダの丘」、
つまりイエスが処刑された場所には、
「聖墳墓教会」が建っています。

ひんやり冷たい空気が漂う、
薄暗くて荘厳な教会です。

内部にはイエスのお墓があります。
キリスト教の最大級の聖地なのです。


イエスが磔にされた場所も、
教会の敷地内にあります。



この小さな城壁の中に、
これほどの重大なものが
集まっているなんて…

寒気がしてくるほど。


でも、
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教って、
信仰している神は同じです。

もともとはユダヤ教からの派生なのです。

イエス・キリスト、ムハンマドと、
異なる預言者異なる教義をとなえ、
大きな違いが生まれたのでした。

そう考えると、
3つの宗教がここに集まっているのも
自然なことなのでしょう。


“共存”を願うばかりです。

今回は、
ざっと歴史の話も入れたので、
ちょっと長くなってしまいました。

次回からパレスチナ自治区(ヨルダン川西岸)
の様子をお届けしていきますので、
続きを読んでいただけると嬉しいです。




最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

それでは、今日も良い1日を!

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