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子がしがみつくための体

トロトロに溶けて霧散したい。ひどく疲れた夜に、そういう思いに駆られる。

一方、子どもが2歳になってから、肉体として存在する必要性を強く感じる。子どもが、「ママー!」と抱きついてくる時。思想、思い、能力。そんなものに意味がなくなり、ただひっしとしがみつかれるための体がそこにある。

子どもと一緒にいると、これまで人とコミュニケーションを取るために大切にしてきたあれこれが消えてしまうのだ。「話を相手に合わせて」「約束の時間に遅れないで」「会話を探って」。

私の母を思い出す時も、印象に残っているのは触れた記憶だ。母の膝で丸まって、「まだお腹の中に戻れるー!」と叫んだ日の、母の冷たい二の腕。抱き着いた流れで首に唇をつけて、薄い皮膚の熱を感じた瞬間。学校からの帰り道に手を繋いで、荒れて固くなった指先を押して凹ませた。

期待したのは、母の言葉が降ってくることよりも、触れることで感じる母の体。そこに彼女がいることを確認して、得る安心だったように思う。

つまり、私が自分の願い通りに霧散して、空気中から子どもに「ここにいるよー、母ちゃんはここだよー」と言っても無意味で、しっかりと抱きしめるほうが、安心するんだろう。

いつからか、私は母と触れるよりも、会話することの方が多くなった。

私が「私」でなくとも必要とされる貴重な時間は、短いのかもしれない。今だけしかない時間を、改めて嚙みしめている。

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